南フランスを散歩していると、牛や羊の群れが草原や石灰岩からなる荒れ地を静かに通っていくのを目にする。牛や羊はあちこちに糞の塊を落としていく。わざわざ足を止めてみる必要もないくらい、ありきたりの話だ。しかし、ちょっと辛抱強く観察してみると、このほとんど何の魅力もない糞の中に本当の宝物が見つかるのだ。そこには大小さまざまな虫が蠢いている。ある虫は、光の加減によって色が変わる金属的な光沢をもち、きらきらと色鮮やかに輝く衣装をつけ、別の虫は、角や槍に身を固めたおどろおどろしい姿で、先史時代や空想科学の中に登場する動物に似ており、地表の汚物をまたたくまに片づけてしまう。彼らは、ジャン=アンリ・ファーブルが『昆虫記』のなかで、最もすばらしい記述をするきっかけとなった、魅力的な糞虫の仲間である。
この甲虫のいくつかは、耳にしただけでおやっと思うような象徴的な名前をもっている。たとえば、シェーフェルアシナガタマオシコガネSisyphus schaefferiがそうだ。疲れを知らずに糞球を転がしていく仕事ぶりといい、強情さといい、この虫は、ギリシア神話に出てくる、神々を愚弄した咎で、頂に着くと転がり落ちてしまう岩を頂上に押し上げる永遠の苦役に服することを命じられたシジフォスの名にぴったりだ。
あそこに見える小さな土の山は、ミノタウロスセンチコガネTyphoeus typhoeus(旧Minotaurus typhaeus)の巣穴の入口だ。この虫の名前は、人肉を食らう恐ろしい牛頭人身の怪物ミノタウロスと、ゼウスによってエトナ山に封じ込められた多頭蛇体の巨大な化け物ティフォンとを組み合わせたものだ。
しかし、これら糞虫の中でも最も有名なのは、エジプト人がケプリ(青年期の太陽)の名で神として崇めたスカラベ・サクレだろう。今日でも、アフリカに生息する大型のスカラベは、この名前で呼ばれている。
スカラベは、はるか古代から人々を魅了してきたし、人類の文化史に大きな足跡を残した稀な虫のひとつに数えられる。この虫の変態の過程や、糞球を捏ね上げる技術は、古代エジプト人の想像力を大いにかきたてた。スカラベが変態を終えてふたたび地上に現われるのは、土壌を肥沃にするナイル河の氾濫の時期と重なる。エジプトの神官たちは、好んでスカラベ・サクレを寓意を用いた予言の手段として用い、エジプト式占星術の神話体系のなかに繰り入れた。スカラベは、まず丸い糞球を作り、つぎにそれを梨形に捏ね上げて、中に卵を一つ産みつける。そこから新たな世代が生まれてくる。この糞球は、レー(ラーとも。壮年期の太陽)をかたどり、あらゆる地上の生命を生み出す丸い太陽を象徴するものとされたのである。
ケプリというスカラベの別名も「存在」「存在する」「生成する」といった意味を同時にもっている。この言葉は、人間の地上の生を表わすとともに、来世に生成することも象徴している。多くのスカラベの図像が固い石に刻まれ、時にはミイラの心臓の部分に置かれたのである。
時代が下ると、スカラベは神秘的というより、魔術的な側面が強調されるようになり、エジプトの芸術家は瑪瑙や水晶や碧玉、さらには型抜きして青緑の釉薬をかけた粘土を用いて、スカラベを浮き彫りや立体彫刻にした護符や装身具を作った。多くの墳墓からこうした製品が見つかっているが、ツタンカーメン王の墓から見つかったスカラベもそのひとつだ。古代にはスカラベ製品が大流行し、地中海全域に輸出された。注文が殺到したため、エジプトの職人は以前ほど注意を払わなくなり、元の神話を無視して、あらゆる種類の糞虫、中には糞球をこしらえない虫をデザインした製品まで作るようになった。現在でも、カイロやアレクサンドリアの市場に行けば、スカラベをかたどった装身具を見つけることができる。
糞虫の間では熾烈な競争が行なわれる。誰がいちばん早く貴重な糞の塊を分捕り、すばやく土の中に埋めて自分の食料にしたり、子供のために巣穴に蓄えるかを争うのだ。多くの種が糞の真下に巣穴を掘り、その中に食料をしまいこむ。しかし、地下の空間は限られているので、じきに満杯になってしまい、遅れてきた者は別の場所を探さなくてはならない。スカラベは糞球を転がしていき、多くの虫が働いている仕事場から離れたところにゆっくりと糞を埋めるという習性のおかげで、こんな競争に巻きこまれることはない。糞は運搬に便利なように球状に捏ね上げられる。ファーブルは、虫が糞球を入念に加工するさまを見事な筆致で描き出した。
産卵の時期になると、雄が後ずさりしながら糞球を転がし、球の裏側に別の個体がしばしばしがみついていて、球と一緒に転がされるさまが観察される。その場合は、雌だ。しかし、運搬の途中で、一頭ないし数頭の雄が糞球を奪い取って自分のものにしようとすることもよくある。すると喧嘩が始まる。持ち主は中肢と後肢を使って糞球の頂にしっかり取り付き、前肢を勢いよく前に投げ出して相手の攻撃を跳ね返すのだ。泥棒は数センチ跳ね飛ばされて、ふたたび攻撃をしかけることはめったにない。虫はまた、もとどおり球を転がすことができるようになる。
スカラベがどっちの方向に球を転がしていくかは、出発時の太陽の位置と密接な関係がある。スカラベは、自分の身体が常に球の影に入っているように、太陽の方向に向かって後ろ向きに押しながら進んでいくのだ。ときどき虫は立ち止まって、球の頂に登り、太陽との位置関係を調節して、また進みはじめる。そのため、同じ糞の山に御馳走の分け前を取りにきたスカラベたちは、時間によって変化する太陽の位置に応じて異なった方向に進むことになり、巣穴を掘る場所を選ぶ競争が緩和されるのである。糞の山から数メートル離れたところに適当な場所が見つかると、雄は巣穴を掘って、糞球と、糞球にぴったりくっついている雌とを巣穴の中に埋めるのだ。
陽が高いあいだは、スカラベ・サクレはあまり活動しない。盛んに仕事をするのは早朝か夕暮れである。他のスカラベは、もっぱら夜に活動する。どうして彼らは暗闇を好むのだろうか?つい最近、研究者たちは、アフリカに分布する夜行性の大型スカラベScarabaeus zambesianusが、眼の背中側の部分に月光の傾きを感知する仕組みを備えており、月光の傾斜角によって進む向きを決めていることを突き止めたのである。
スカラベは飛びながら糞を探す。扇形の触角を大きく広げて、地上の汚物から漂ってくるごくわずかな匂いを嗅ぎつける。よさそうな糞が見つかるとどさりと着陸し、食物のありかへ駆けつけていくのである。
一般的に、あらゆる昆虫の活動は気温と密接に関係している。気温が高くなると、活動も活発となる。夜間、まわりの温度が昼間と比べて極度に低くなると、スカラベが糞を探しにいく確率は低くなる。しかし研究者が明らかにしたところでは、この大きな昆虫の翅を支える筋肉の温度は、空気や地面の温度よりもはるかに高いのである。周囲の温度が20度から35度の間で変化しても、ダイコクコガネやセンチコガネなど他の大型糞虫と同様、翅を動かす筋肉が収められた前胸の温度は、おおよそ40度前後に保たれている。きわめて効率のよい生理調節機能をもっているため、スカラベは飛び立つ前に、筋肉が働くのに最適な水準まで体温を上げることができるのだ。
スカラベ・サクレは、体長1ミリほどの小さなハエや、さらに小さいダニなど、ふだんはほとんど動かないたくさんの小さな生物を体にくっつけている。このように体の小さな生物が体の大きな生物にたかって運ばれる現象は、片利共生の一種で、「便乗」と呼ばれている。1頭のスカラベについて運ばれるハエの数は50匹にもなるが、彼らがスカラベを視覚によって見分けているのに対し、ダニのほうは、触鬚の先についた探知器官で宿主のスカラベを化学的に見分けている。スカラベは種によって発散する匂いが異なり、その匂いのもととなる物質の分子配列の違いが、化学的な目印になるのである。スカラベにとりつく便乗者は、そのおかげで、自分に適した場所に運んでくれるスカラベを選ぶことができるのである。研究者は現在、このような、スカラベとスカラベの体につく生物との複雑な関係に興味をもっている。
スカラベが地下の巣穴に糞球を埋めるとき、お供の小さなハエやダニを巣穴の中に連れていき、そこで一緒に繁殖する。巣穴の中は、光から守られているだけでなく、湿度や気温がきわめて安定しており、ミクロなレベルで繁殖に適した環境条件が整っている。ハエは、スカラベの糞球や梨形の育児球に卵を産みつけるが、彼らの幼虫は、スカラベの幼虫のために準備された食物に大きな被害を与えるほど増えることはない。巣に運ばれたダニが、ハエの幼虫を食べて、その数が増えすぎないように調節するからだ。したがって、この三者の結び付きは、いずれにとっても利益のある関係となる。スカラベは、ダニのおかげで糞球を守ってもらえる。ダニは、スカラベの巣穴で繁殖し、自分にみあった食物を見つけることができる。小さなハエは、こうした条件に生命周期を適応させて、ダニからの攻撃を受けにくくしているのだ。
人間の活動が、スカラベや、もっと広く糞虫全体に深刻な脅威となってきている。南フランスでも、スペインでも、海岸の砂丘に生息するナカボシタマオシコガネScarabaeus semipunctatusは絶滅しつつある。地中海に沿って観光地の開発が進み、彼らの生息地を侵害したのも大きな理由だが、何より乗馬のような娯楽が致命的な打撃を与えたのだ。こんなことを言うと逆説的に聞こえるかもしれない。観光客が馬で砂丘を散歩すれば、馬が糞をしてスカラベはふんだんに食料にありつけるわけで、好都合なはずだからだ。しかしこの話は、馬が駆虫剤を投与されており、殺虫成分が糞にも残留することを考えに入れていない。このため近年、砂丘に住むスカラベは激減し、ナカボシタマオシコガネの姿を見かけることはますます稀になってきている。この現象は全地球上で一般的に当てはまる話だ。ほとんど誰も語らないが、家畜に薬が投与されている地域のすべてで、糞虫を大量に殺戮していることになる。
さてここで、糞虫は、すばらしい掃除屋であり、糞の下で窒息死するようなことがないようにしてやれば、牧草地で家畜の排泄物を素早く片づけてくれることを忘れてはならない。1970年代、オーストラリアの研究者は、オーストラリア原産の糞虫の数が少なく、彼らだけでは家畜の糞が処理しきれないのを補うため、ヨーロッパ産とアフリカ産の糞虫を大量に導入することにした。この時代、毎年、オーストラリアに落とされる家畜の排泄物を集めて敷き広げたとしたら、100万ヘクタール近くになっただろう。東京近郊が、こんなふうに家畜の糞で埋め尽くされた光景を想像してみていただきたい。この糞虫輸入計画は15年間つづけられ、数億ドル規模の費用は大部分、牧畜業者が負担した。それ以来、オーストラリアの牧畜業者は、環境面ばかりでなく金銭的な面でも、糞虫の価値を認識することになった。彼らにとって糞虫は金のかかった投資であり、現在、糞虫は大切にされている。しかし、糞虫がひっそりと、しかも只で仕事をしている世界の他の地域では、しばしばこの貴重な資源は浪費されているのである。
ファーブルが愛した虫を道連れに、こうして人類の歴史のあちこちを散策してみると、動物の排泄物を利用するこの虫が、どれほど複雑な相互作用のなかに組み込まれているかがよく分かる。もしファーブルが現代によみがえったとしても、彼が一世紀以上前、アルマスのごく近くで行なった観察を、今の時点ですべて再現できるかは、考えてみる価値のある問題だ。ファーブルが行なった実験は、虫にたくさん出会わねば不可能なものが大部分だ。ファーブルが『昆虫記』で扱っている虫は、すべてファーブルの時代にはたくさんいた、ありきたりの種なのだ。
1950年代から農薬の散布方法に大きな変化が起こり、動物に犂を曳かせることもなくなり、スカラベの食料となる糞も消滅した。自動車道路はアスファルトで舗装された。都市化がますます進行し、それにつれて自然の空間は縮小していった。牧畜も近代化され、工業的手段をまじえて生産される飼料も使われるようになり、動物に対しても多くの医薬品が用いられるようになった。たとえファーブルであっても、あれほど仔細に観察した昆虫たちを、探すのに苦労するだろう。しかしファーブルのことである。現代の我々スカラベ研究者と同じように、苦労しながらもスカラベ・サクレをあちこちで見いだし、うっとりと眺めているはずだ。
古代エジプト人が崇めたこの糞虫は、我々にとって、人類の過去を偲ばせる象徴であるとともに、人類の未来を告知する強力な象徴でありつづけるであろう。(訳=大野英士)
「ああ、アヴィニョンよ!このすばらしい町のおかげで、貧乏だった私も学校に通い、小学校の先生になることができたのだ。私たちは、いっしょに大きな仕事をやりとげることになるだろう。ここは、マラリアに罹って離れることになったコルシカのような不毛の土地ではない。アヴィニョンよ、アヴィニョンよ、私はおまえのもとにやっと帰ってきたぞ!」
たしかに、前任地コルシカでの生活は、ジャン=アンリ・ファーブルと彼の家族にとって楽なものではなかった。研究の資材もなく金もなかった。しかし、植物学者・軟体動物の研究者エスプリ・ルキアンと、植物学との決定的な出会いがあった。
残念ながら、フランス本土へ帰ってきても、暮らしはファーブルが考えていたほど満足のいくものではなかった。惨憺たる時期の始まりとすら言うことができる。しかも、こうした生活はその後18年も続くのである。アヴィニョンの高等中学の先生の年収は1600フランに過ぎず、外地手当のつくコルシカでの給与より200フランも少なかった。子供が生まれるたびに増えていく家計の赤字を補うため、ファーブルは勉強のできない子供の家庭教師を行なった。根っからの教育家であったファーブルにとって、知識を教え広めること、自分の知っていることを説明し普及させることは、職業や使命以上に大切だった。それはまさに彼の人生そのものであったのだ。
ファーブルと家族の生活は、極貧とまではいわないが、とても苦しいものだった。家事をあずかる一家の母マリー=セザリーヌは、わずかな給料をできるだけ長いこともたせなければならなかった。普段の食事は水で薄めた野菜スープだった。野菜といっても、たいていは干し隠元や、空豆、レンズ豆、雛豆といったたぐいで、トマトやナス、ズッキーニを食べるのは、地元の畑でたっぷりと穫れる夏のあいだだけだった。たまには食事がベーコンで賑やかになることもあったし、大御馳走を振る舞うときは牛肉とトマトを蒸し煮にして食べた。ただ、たいていは羊の肉で、マリーは、これをジャガイモと一緒にごった煮にした。だからファーブルは、日々の食事を豊かにするために持ちまえの狩りの才能を発揮して、郊外の丘に出かけ、野鳥や兎といった獲物を狙ったものだ。
何スーか小銭が貯まると、マリーは山羊や羊のチーズをちょっぴり買ってきて、一家は、それを少量のマルメロのジャムと混ぜて食べた。ファーブル家の食卓には生のままや干したイチジクがよく載った。これはとても栄養価の高い食べ物で、食べるとお腹がすぐにいっぱいになった。パンの値段にはほとんど変動がなかったとはいえ、1キロ50から60サンチームもした。4人家族では1日2キロ必要だったが、食卓にパンは欠かすことができなかった。ワインは安かったので、ファーブル家の食卓のいちばんいいところにどんと置かれていたが、これを飲むのはファーブルひとりだった。もっとも、ファーブルはとても酒が好きだったので、生活がいちばん苦しい時期には、あまり味が良いとはいえない粗悪なまがいものを自家醸造して間に合わせなければならなかった。
収入がおそろしく少ないうえに、子供が5人ともなると、生活は一層苦しくなり、ファーブルは、一家の費えをまかなう別の手段を見つけなくてはならなくなった。
もちろん、ファーブルの関心はつねに教育の問題に注がれていた。彼は生徒たちに興味をもたせるすべを心得ていた。生徒はみんな、この先生の魔法にかかっているように見えた。ファーブルは穏やかな口調で、声に抑揚をつけながら、話している内容を、まるでその場で体験しているかのように生き生きとよみがえらせるのである。ファーブルは授業をするのではなく、物語を話して聞かせたのだ。大胆に、しかもいちばん年端のいかない生徒たちでも、びっくりさせたり、怖がらせたりしないように、細心の心配りをしながら、来る日も来る日も、科学の基礎知識を説きつづけた。人類みんなを救ってくれるのは科学知識だけだと考えていたのだ。
彼が語ったのは、技術や自然について、生命をもたない機械について、か弱い生き物についてだった。生徒は化学の不思議に目をきらきらさせ、科学の言葉で語られる植物の話に熱心に耳を傾けた。ファーブルは、植物が朝どのように開花するかを描写したり、人間よりもはるか以前に、クモがどうやって幾何学の知識を得て、見事な巣を張るようになったかを説明した。また食塩がどのような原子によって組み立てられているかを語ってみせた。科学をやさしく語ることにかけてはファーブルはまさに名人だった。生徒はファーブルの話にすっかり魅了された。ファーブルが話しだすと、ハエさえぶんぶんいうのをやめておとなしくなるように思われた。
1866年、アヴィニョン市はファーブルに、自然史博物館、のちのルキアン博物館の学芸員の役職を与えた。収入が増えるという理由ばかりでなく、コルシカ島にいたときのルキアンの思い出、彼との友情や彼の与えてくれた援助のことが、まだ生々しく脳裏に焼き付いていただけに、ファーブルがどんなに喜んだかは想像がつく。博物館の建物は、当時、科学の手にゆだねられていたが、かつては教会だった。植物園の中心に建っていて、ファーブルはこの壮大な植物園の管理も任されていた。植物園は、その後まもなく閉鎖されたが、博物館は現在別のところに移転され、当時の資料とともに公開されている。
ファーブルは、教会の外陣だった部分を覆うように並んだ、ガラス戸のはまった大きな陳列ケースの端から端まで目を走らせた。陳列ケースの中には、ルキアンが集めた膨大な数の標本が収められていた。台の上に載せられ、前面に太い文字で名前を書いたラベルが貼られている、さまざまな色の、小さな立方体の形をしたコルシカの岩石。地中海やオリエント地方の現代の貝殻や、同地方で数100万年前に化石になった貝殻。それから植物標本があった。あの、個人の蒐集としてはフランス最大規模を誇る腊葉標本のコレクションだ。ルキアンが自分で採集したもの、他の植物学者と交換したり贈与されて手に入れたもの、さらに折りにふれて購入したものをも含む、おそらく30万点はあろうかと思われる膨大な標本である。ファーブルは少々埃っぽい何千という箱に取り囲まれて、採集地の資料を分類し、選別を行ない、整理し、目録を作成した。
ヴァントゥー山、ローヌ河の岸辺、リュベロン山、ネック峡谷……。いずれも、この名高い植物学者が訪れた場所だが、ファーブルはこれらの資料のおかげで、ヴォークリューズの植物相に関する本の執筆計画を毎日少しずつ進めていくことができた。
ファーブルは研究から収入を得ることも考えていた。実験結果をまちがいなく産業に応用できる、まさにぴったりのテーマが見つかった。アカネである。この地方で普通に見られるこの植物の根から、軍人用の赤いズボンのために軍が大量に必要とする赤い染料が作られていたのである。アカネから赤い色素を純粋な形で取り出すことができるにちがいない。ファーブルは作業に取りかかった。実験室がないだって?それなら一家の台所を占領すればいい。焜炉がないだって?それならオムレツやごった煮を料理している脇で、アカネの抽出液をフライパンで温めればいい。材料をすりつぶす乳棒がないだって?マリーが使っているすりこぎを借りればいい。レトルト蒸留器で材料を熱し、蒸留し、分離する。ファーブルは、化学の実験道具と家庭用の調理用具をとりまぜて使いながら、まるで錬金術師のように作業を進めていった。ある日、ついに結果が出た。磁器製の坩堝の底のほうに、にぶく金属的な光を放つ、ボルドーの赤ワインのような薄片が現われたのだ。アリザリンだ。興奮するのはまだ早い。実験をもう一度やりなおしてみよう。実験を記録する手帳に、操作の手順を書きつけておこう。同じ結果が再現された。一度、二度……、そうだ、彼は成功したのだ。とうとう彼は運命の女神の手を掴んだのだ!あとは、協力者を見つけ、工業化段階に移ればいい。せいぜい数か月もすれば、長年にわたる窮乏の日々のことなど忘れてしまうだろう。
アヴィニョン時代は、知的には豊かであったにもかかわらず、ファーブルと家族にとっては、がっかりすることばかりが続いた時期でもあった。
ファーブルは生徒たちの人気を集めた。そのため、先生は必ず何か意地の悪い渾名をつけられるのが常であったのに、ファーブルは一度もそんな目に遭わなかった。だが生徒の評判にもかかわらず、ファーブルは、学位免状をたくさん持っていたために同僚からは嫉妬を買った。ファーブル自身は、自分は学士免状をいくつも持っているのだから、いつか大学で教えられるようになるだろうと考えていたが、またもや財産のないことが乗り越えがたい障害となった。貧しさを抜け出すために望みをかけていたアカネの染料は、二人のドイツ人化学者がアリザリンの化学合成に成功したため、アヴィニョンの染色産業自体が壊滅的な打撃を受け、結局、ファーブルの希望も潰えさった。
アヴィニョン時代は、もうひとつきわめて苦い思い出を残した。彼はここで、パスツールと出会ったのだ。のちに高名な微生物学者となるパスツールは、過剰ともいえる自負にあふれており、名もない田舎教師ファーブルに対してまったく敬意を払わず、自分の偉さを見せつけようとした。自分に正直なファーブルは、的確で比喩に富んだわずかな言葉で科学と倫理の両面から教訓を与え、パスツールの高慢な鼻をへし折って面目をつぶしてしまった。二人の学者は二度と相まみえることはなかった。
ルキアン博物館でファーブルが無料で行なった公開講義、とくに若い女性のために行なった講義は、教会のすさまじい憤激を買った。教会関係者は若い女性を教えるのにふさわしいのは自分たちだけだと考えていたのだ。彼らの怒りは、ファーブルが、年若い女性聴講者に花がどのように受粉し実をつけるかを説明するにおよんで頂点に達した。ファーブルは細心の注意を払い、直接的であからさまな語彙を避け、婉曲な言い回しで話したのだが、ごりごりの信者や旧弊な宗教精神の持ち主は、ファーブル講師を排除しようと陰謀を巡らした。
ファーブルは抵抗し、説明し、自己弁護を試みたが、相手側は納得しなかった。ファーブルが自分の立場を弁明しても、カトリック勢力は頑強に自分たちの偏見を改めようとはしなかった。カトリックで、信仰に厚く、若いときにはしばしば教会に通ってもいたファーブルが、どうして教会に逆らうなどということがあるだろうか?彼は講義の草稿を提出し、自分の発言の内容をほぼ話したとおりの言葉で再現してみせた……が、それも何の役にも立たなかった。彼は社会の慣習に反旗をひるがえし、うら若き清純な乙女たちに信仰に反するみだらな考えを吹きこもうとした、だから有罪だというわけだった。博物館の所有者は二人の独身女性だったが、「反ファーブル派」の陰謀にすっかり取りこまれ、予告なしにファーブルに解雇を通告し、1870年にファーブルを博物館から追い出してしまった。このような悪意と意地の悪い仕打ちにすっかり憔悴し、精神をさいなまれ、打ちのめされたファーブルは、ついに自分の敗北を認め、アヴィニョンに見切りをつけた。
手元に現金が一銭もなかったため、ファーブルは自分の所有するわずかな家財をオランジュに移すため、ジョン・スチュアート・ミルに借金を申し入れた。友情に厚い友人は、担保も証文も取らず、すぐさま言われたとおりの金額を送ってよこした。ファーブル一家はアヴィニョンに別れを告げ、かつて教皇庁のあった町から25キロほど離れた小さな町オランジュのやや外側に位置する美しい住まい「ラ・ヴィナルド」に落ち着いた。もはや戻ってくるいかなる理由もなかったため、ファーブルは、あれほど熱心に仕事をし、あれほど多くの計画を温め、あれほど多くの希望を抱き、そしてあれほど多くの不幸と幻滅を味わったアヴィニョンのことを忘れてしまった。
ヴォークリューズの植物相に関する著作は、日の目を見ることはなかった。ファーブルとともにこの著作を書くはずだったミルが73年に死んでしまったからだ。ファーブルは、一人で、しかも博物館の植物標本も参考にできない状態で、この著作を完成させようという勇気はもてなかった。
すこしあとになってファーブルはオランジュを去って、セリニャンの有名なアルマスに引っ越し、すべてを研究に捧げることになった。そしてそこで、人間から見捨てられるにしたがい徐々に彼の友人となったものたち“昆虫”について、多くの美しいページを書き記したのである。(訳=大野英士)