「ファーブル『昆虫記』との出会い」
私が生れた東京青山の家のそばには、大きな原っぱがあって、そこで私は最初の虫採りを始めた。アカトンボやトノサマバッタ、たまに夕方にやってくるギンヤンマなどであった。
また夏休みは箱根強羅の別荘に行けたので、そこにはヒグラシが多かったし、都会にはいないミヤマカラスアゲハなどがいた。
小学校の四年生の夏休みに、昆虫標本を作るよう宿題があった。もともと虫は好きだったから、私ははりきって虫を集めた。大人にデパートで本式の捕虫網を買って貰い、生れて初めて蝶を展翅(てんし)した。そして呈出した二箱の標本にかなり自信を抱いていた。ところが、友人の出した標本のほうがずっと良かった。おそらく父か兄に助けられたのであろう、おまけに一つ一つの虫の名を記したラベルがついていた。私にしろモンシロチョウやシオカラトンボなどの名は知っていたが、そのほかの虫にみんな名がついているとは知らなかった。そういう虫の名が記してある昆虫図鑑というものがあることを初めて知った。
その頃、一般の本屋で売られているのに平山修次郎著『原色千種昆虫図譜』というのがあった。三円三十銭で、子供の私にとっては高価なものだった。やっと決心して私は本屋に入ったが、カバーの汚れたものなどを買う気はしなかった。横のほうに変ったカバーのある同じ名の図鑑があった。私は夢中でそれを買い、さて開いてみると、どうも様子がおかしかった。周知のモンシロチョウすら載っていなかった。おまけに大半が台湾産や朝鮮産の虫なのだ。慌てて、「続篇」のほうを買ってしまったのである。これでは役に立たない。私の昆虫熱はあらかた去ってしまった。
ところがその冬、私は急性腎炎を病み、一学期間も学校を休まねばならなかった。何より安静が大切でただじっと寝ていなければならなかった。
ようやく床の上に起上ることを許された頃、大人が気の毒がって、『昆虫図譜』の正篇を買ってくれた。このほうは、私のあこがれをしっくりと満たしてくれた。都会にもいるカラスアゲハと箱根にいたミヤマカラスアゲハの区別もようやく分かった。
繰返し、私はその本を眺めて暮した。どの図版も説明も暗記するほど見た。それで、私は内地にいる大半の虫の名を覚えたと思いこんだ。本のうしろに、付録として「昆虫採集法」が載っていた。灯火採集とか腐肉採集などである。同時に私は、加藤正世さんの『趣味の昆虫採集』という本を、繰返し読んだ。そして、もし元気になったら、ああもやろう、こうもやろうと、虫を採る夢を追いつづけた。
この長い病気が、私を本格的な虫好きにさせたのである。その夏から、私は本気で採集を始めたのである。
またそろそろ中学の受験の準備を始める年頃だったから、青山通りから渋谷へ行くところにある古本屋をのぞいて歩いた。すると、岩波文庫のファーブル『昆虫記』があった。
正直なところ、子供にとっては『昆虫記』はかなりむずかしい。虫好きの私ですら、初めゴミムシの分冊に当り、かなり退屈であった。しかし次に「玉押しコガネ、スカラベ・サクレ」の分冊に出会い、興味が尽きなかった。中学二年の頃に、ようやく全部を読みきった。ところどころにファーブルが思い出を語る章があって、これはごく楽しかった。
岩波の『昆虫記』はあまり虫にくわしくない人の訳であったから、日本にいない虫の和名のつけ方などかなりあやしいところもあった。
このたび、奥本さんがとうとう『昆虫記』を完訳された。さすが虫好きの人だけあって、ファーブルが「スカラベ・サクレ」とした糞虫(ふんちゅう)が同定が間違っていたことなどがくわしく記されている。まさしく偉業だと言ってよかろう。