月報 第9号・第10号

月報第9号 第5巻 上

北 杜夫

「ファーブル『昆虫記』との出会い」

 私が生れた東京青山の家のそばには、大きな原っぱがあって、そこで私は最初の虫採りを始めた。アカトンボやトノサマバッタ、たまに夕方にやってくるギンヤンマなどであった。

 また夏休みは箱根強羅の別荘に行けたので、そこにはヒグラシが多かったし、都会にはいないミヤマカラスアゲハなどがいた。

 小学校の四年生の夏休みに、昆虫標本を作るよう宿題があった。もともと虫は好きだったから、私ははりきって虫を集めた。大人にデパートで本式の捕虫網を買って貰い、生れて初めて蝶を展翅(てんし)した。そして呈出した二箱の標本にかなり自信を抱いていた。ところが、友人の出した標本のほうがずっと良かった。おそらく父か兄に助けられたのであろう、おまけに一つ一つの虫の名を記したラベルがついていた。私にしろモンシロチョウやシオカラトンボなどの名は知っていたが、そのほかの虫にみんな名がついているとは知らなかった。そういう虫の名が記してある昆虫図鑑というものがあることを初めて知った。

 その頃、一般の本屋で売られているのに平山修次郎著『原色千種昆虫図譜』というのがあった。三円三十銭で、子供の私にとっては高価なものだった。やっと決心して私は本屋に入ったが、カバーの汚れたものなどを買う気はしなかった。横のほうに変ったカバーのある同じ名の図鑑があった。私は夢中でそれを買い、さて開いてみると、どうも様子がおかしかった。周知のモンシロチョウすら載っていなかった。おまけに大半が台湾産や朝鮮産の虫なのだ。慌てて、「続篇」のほうを買ってしまったのである。これでは役に立たない。私の昆虫熱はあらかた去ってしまった。

 ところがその冬、私は急性腎炎を病み、一学期間も学校を休まねばならなかった。何より安静が大切でただじっと寝ていなければならなかった。

 ようやく床の上に起上ることを許された頃、大人が気の毒がって、『昆虫図譜』の正篇を買ってくれた。このほうは、私のあこがれをしっくりと満たしてくれた。都会にもいるカラスアゲハと箱根にいたミヤマカラスアゲハの区別もようやく分かった。

 繰返し、私はその本を眺めて暮した。どの図版も説明も暗記するほど見た。それで、私は内地にいる大半の虫の名を覚えたと思いこんだ。本のうしろに、付録として「昆虫採集法」が載っていた。灯火採集とか腐肉採集などである。同時に私は、加藤正世さんの『趣味の昆虫採集』という本を、繰返し読んだ。そして、もし元気になったら、ああもやろう、こうもやろうと、虫を採る夢を追いつづけた。

 この長い病気が、私を本格的な虫好きにさせたのである。その夏から、私は本気で採集を始めたのである。

 またそろそろ中学の受験の準備を始める年頃だったから、青山通りから渋谷へ行くところにある古本屋をのぞいて歩いた。すると、岩波文庫のファーブル『昆虫記』があった。

 正直なところ、子供にとっては『昆虫記』はかなりむずかしい。虫好きの私ですら、初めゴミムシの分冊に当り、かなり退屈であった。しかし次に「玉押しコガネ、スカラベ・サクレ」の分冊に出会い、興味が尽きなかった。中学二年の頃に、ようやく全部を読みきった。ところどころにファーブルが思い出を語る章があって、これはごく楽しかった。

 岩波の『昆虫記』はあまり虫にくわしくない人の訳であったから、日本にいない虫の和名のつけ方などかなりあやしいところもあった。

 このたび、奥本さんがとうとう『昆虫記』を完訳された。さすが虫好きの人だけあって、ファーブルが「スカラベ・サクレ」とした糞虫(ふんちゅう)が同定が間違っていたことなどがくわしく記されている。まさしく偉業だと言ってよかろう。

●糞を丸めて転がす黄金虫

【スカラベ・サクレ】奥本大三郎

蟲の賜・5

 スカラベと蝉は本来同じである、などと言ったら誰でも驚くであろう。しかし中国人は驚かない。少なくとも清代までの中国人なら驚かないはずである。

 たとえば、乾隆時代の文人、沈復(しんふく)という人が書いた、早世した妻を想う、哀切きわまりない、あの『浮生六記(ふせいろっき)』のなかに次のような一行がある。

 蜣螂(くそむし)は糞を丸めて蝉に化するが、あれは高く挙がろうとの考えに基づくものだ。

(松枝茂夫訳・岩波文庫)

 “蜣螂(きょうろう)”はすなわちスカラベのことであって、訳者はこれに“くそむし”と仮名を振っている。

 スカラベの仲間、つまり糞球を転がす糞虫は、フランス、アフリカから、ユーラシア大陸の東の端、今の北朝鮮まで分布する。中国人もこの虫を見ているわけで、これが球を抱えて地に潜ることを観察しているのである。

 唐代には、段成式(だんせいしき)が、そのプリニウス的博物誌『酉陽雑俎(ゆうようざつそ)』のなかに、蝉のことをこう記している。

 ぬけかわらないとき、復育と名づける。伝説によると、蛣蜣(きつきよう)の変化したものである。

(今村与志雄訳・平凡社東洋文庫)

 “蛣蜣(きつきよう)”も糞虫の異称である。地中に潜った、つまり一度死んだスカラベは、次には蝉になって蘇り、樹上高く登るというのである。

 中国の蝉は、従って高尚な虫であり、その視点で蝉を詠んだ詩が多数存在する。

 春秋戦国時代の墓からも死者の口に含ませた玉(ぎょく)の蝉が出土する。これを含蝉(がんせん)と言っている。無論、含蝉は死者の再生を祈願したものであろう。

 死と再生のシンボル――中国ではスカラベと蝉とがこうして結びつけられたわけだが、古代エジプトではスカラベが一身にこの信仰を背負っている。それがすなわち太陽を東から西に運ぶ神、ケプリである。

 古代エジプト人も、スカラベが地中に潜って死に、やがてナイル河の氾濫による増水の引いたあと、若いスカラベとなって再び生まれてくると考えていた。

 おそらくエジプトと中国の信仰は古代において通底するものであったのだろう。中国人は蝉ばかりを象(かたど)り、スカラベのほうは卑しんだのか、お守りにも何にもしなかったけれど、古代エジプト人は、御影石やラピスラズリのような貴石を彫ったり粘土を焼いたりしてスカラベの護符を大量に造っている。今もエジプトの旅行者が「本物、本物」と言われるまま買って帰るのがそれである。

 このスカラベの護符をミイラの心臓のところに置いたり、日常、ペンダントとして首にかけたりもした。また、妊婦がスカラベを粉にして飲み、安産を祈願したという。

 第六王朝(紀元前二三四五―前二一八一)には、スカラベ形の石の裏に文字を彫った印章が使用されるようになる。パピルスに記した文書を丸めて紐で結び、泥を油で練ったもので封をしてから印章を押すのである。このスカラベ形印章の流行は第十八王朝(新王国時代)まで続くが、やがて指輪形印章がこれに取って代わるようになる。たしかに判子を指輪にして身につけていれば、忘れたり無くしたりする虞(おそれ)がない。こんな指輪が古代エジプトからギリシアに伝わり、特にエトルリア人がこれを愛用したという。

 それにしても、『浮生六記』のような感動的な本を読んでも、“虫”というとすぐに反応してメモを取ったりするこの私も因果な性分であるには違いない。

月報第10号 第5巻 下

高橋敬一

「誤解されているファーブルの世界」

 私たちはいま、奥本大三郎氏訳による新しい『ファーブル昆虫記』を手に入れつつある。これは驚くべき新訳で、読みやすく正確な訳文と、豊富な注釈や図の追加により、原書をも凌ぐ内容となっている。

 私が『ファーブル昆虫記』を岩波文庫で読んだのはもう二十年以上も昔のことだ。そのときに感じたファーブルという人物の近寄りがたさは、いまも忘れることがない。

 そのためか、日本人が親しそうに、ファーブルや、彼の虫たちの名前を出すたびに、私はいつも強い違和感を感じないではいられなかった。ファーブルは実に気難しい頑固な研究者であったし、彼にとっての昆虫は、研究材料以外の何ものでもなかったはずだ。

 ところが今日の日本において、「ファーブル」という言葉で一般的に語られるのは、愛すべき小さな生き物たちと共存する、慈父のごとき自然愛好家のイメージだ。

 誤解されているのはファーブルの性格ばかりではない。日本人は漠然と、ファーブルが自然豊かな場所に暮らしていたと思っているのかもしれないが、彼が住んでいたのは、人間が営々と搾取し続けたあげくの、荒れ果て干からびた、かすのような土地、荒地(アルマス)だった。

 そんな土地を目の当たりにしながら、あれほど攻撃的であったファーブルでさえ、自然保護についてはひと言も口にしてはいない。ファーブルの時代の人間たちは、はるかな祖先の時代からそうした貧相な風景の中で暮らし続けてきた。自然とは、耕し、搾取するためのものであり、ファーブルにとって唯一重要なことは、その貧しい生態系の中にも、研究に値する昆虫がいくらでもいたということだけだった。

 環境悪化が叫ばれる今日の日本だが、その生物相(せいぶつそう)はフランスなどに比べたら驚くほど豊かだ(日本には十万種もの昆虫がいると言われている)。それなのに日本人は、ファーブルに習って足元にいる目立たないが興味深い生態を持つ昆虫に目を向けることなどはせず、相変わらずオオムラサキやギフチョウやホタルなどの定番派手虫ばかりに血道をあげている。ファーブルを神のように崇める人々がこのようなことをするのを、彼自身はとても理解できないに違いない。

 私の家の近所には、コガシラコバネナガカメムシというカメムシが棲んでいる。ササの堅い茎の中に棲むこのカメムシの生活はとびきり変わっているのだが、そんな話をしても、みんな困ったような顔をするばかりだ。

 ファーブルが有名な日本においてさえ、『昆虫記』がどれほど読まれていないかは、このことからも容易に想像することができる。

 ファーブルを崇拝しながら、日本人が見ているのは郷愁の幻だ。自分たちが子供のころを過ごした自然への郷愁なのだ。私たちにとっては、子供のころの自然こそが「本物の自然」であり、そこで見たオオムラサキやギフチョウやホタルやトンボこそが「本物の昆虫」なのだ。そしてそれらを駆逐しつつあるのが自分自身の日常生活であることも忘れ(科学者でさえ)、こんなことを言ったりもする。

「子どもたちのためにも、この貴重な自然をいつまでも守りたいと痛切に感じます」

 しかしこの世に、「本物の自然」も、「本物の昆虫」も、どこにも存在しはしない。太古の昔より、環境も生物も、常に移ろいゆくはかないものに過ぎなかったはずだ。

 だからといって私は、現在も進行しつつある人為的な環境改変が、人間社会の存続に大きな脅威となっているのを否定するわけではない。ただ私は、そうした環境の変化を、もはや食い止めることはできないと思っているだけだ。

 なぜなら、今日の環境悪化を引き起こし、人間を滅ぼそうとしているものの真の正体、それは人間の本能そのものだからだ。

 人間は今から約二十万年前に誕生した。人間の本能も、人間が生まれた当時の状況を背景として成立している。その背景とは「資源と空間と時間の無限性」である。しかしいま、資源はもはや無限ではなくなり、地球はあまりにも狭いものとなり、地球上の時間でさえ、生物にとっては限りあることが分かっている。

 現在の状況からみれば、人間の本能は、はなはだしく旧式なものになり果てている。それにも拘わらず本能は、いまだに二十万年前と同じ命令を出し続けている。「住みやすいよう、どんどん環境を改変しろ!」「どんどん子どもを作れ!」「敵をどんどん追い出せ!」

 こうした本能の頑固さこそ、ファーブルが繰り返し描いてみせた世界ではなかったか(私たちの価値観や理想も、この本能の表面にべったりと張りついている)。本当に人間を救いたいのなら、私たちは私たちの本能を変えるしかない。しかしそのとき、私たちは人間でなくなってしまうだろう。

 進化というタイムスケールでとらえれば、すべては必然の出来事だ。最初は種(しゅ)の繁栄をもたらした本能が、やがては種の維持の障害となり、そのためにその種は滅び、代わりの種が台頭してくるのは進化の定則であり、人間もその例外ではない。

 この地球上で綿々と繰り返されてきた進化という絶滅と誕生の物語を、人間も受け継ぎ、次の生物へ引き渡そうとしている。人間による環境破壊が、知らず知らずのうちに新しい進化を押し進めているのだ。

 私たち人間もまた、進化という物語の中で生まれ、他の生物の進化を押し進め、そして消えていく、無数の登場人物の一人に過ぎなかったのだという認識こそ、今、何よりも必要なものではないだろうか。

 自然と引き替えに手に入れた文明の恩恵を存分に享受しながら、一方で自然破壊や環境悪化を糾弾しつつのうのうと暮らすことはたやすい。

 しかし、はなはだしい困窮と貧相な生態系の中で、なお科学の探求を続けるファーブルのような求道者(ぐどうしゃ)になることができるのは、ごくごくかぎられた一部の人間だけである。

 私はいま、このすばらしい『ファーブル昆虫記』の新訳を読みながら、本能の持つ頑固さと、それゆえに生じる限界について、あらためて考えてみたいと思っている。