月報 第7号・第8号

月報第7号 第4巻 上

加賀乙彦

「遊びとしての昆虫採集」

 私は西大久保一丁目(今の歌舞伎町二丁目)で育った。花園神社のすぐ近くで、新宿の繁華街が近かったが、一軒一軒緑の多い庭のある住宅の並ぶ街だった。私の家の隣には、旧制一高の生物学の先生の家があり、さすがは専門家、多くの花壇に植物を植え、巨木の森のある広い庭を持っていた。たぶん、沢山の昆虫がそこに生息していたのだと思う。

 夜、勉強していると窓からいろいろな虫が飛び込んできた。カンという音とともに果敢に机上のスタンドに衝突してくるのはカナブンブンで、まあ、刺したりの悪さをしないから、そのままにしておくと、本やノートの上を黒い背中を誇らしげに光らせながら歩いている。しかし、本の活字の上を這いだすと、つまんで夜の闇に投げ返してやる。テントウムシもずいぶんと来訪した。こちらは羽の紋様がいろいろで、勉強の疲れを癒してくれるようで見とれたものだ。

 網戸を張って虫を部屋に入れないという排他の心をあのころの人間は持たなかったらしい。もっとも蚊は刺すので足元に渦巻き型の蚊とり線香をくゆらせて用心をしたが。まあ、それくらいが私の防衛で、虫と共存して暮らしていたのだ。

 右は夏から秋にかけての夜の思い出であったが、夜は昆虫に対して寛大な私が、昼間、とくに夏の昼間になると、昆虫の捕獲に夢中になった。というのは夏休みの宿題として昆虫採集をする数人の友がいて、競い合って捕虫網を振り回し、三角紙や虫かごを持って、戸山ヶ原に出掛けたのだ。この陸軍の模擬演習をする練兵場は、演習のないときには子供たちの広々とした遊び場になった。省線電車(今のJR線)のすぐそばにあった三角山という丘は、洞窟があって沢山のコウモリが住んでいた。夕方コウモリが群れをなして飛び出すころに私たち子供は家路につくという寸法である。

 この三角山から見渡すと戸山ヶ原の地形がよくわかった。草原、松林、塹壕といろいろで、そこを捕虫網を持って駆け回る。池はなかったのにトンボは沢山いた。花はそれほど種類がなく、むしろ荒涼とした荒れ地の様相であったのにチョウチョウはひらひらと飛んで私たちを誘った。あれらはどこから飛んできたのかと、私は今でも不思議に思っている。おそらく、私たちの知っていたのは広大な練兵場のほんの一部分であって、どこかに池でもあったのであろう。

 採集した昆虫を展翅板(てんしばん)で形をととのえ、それから図鑑で名前を調べる。なんだか、自分が学者になったようで誇らしい気分になる。が、子供の私にはそれは学問ではなく、遊びなのであった。そのころファーブルの子供版を読んでいたが、ファーブルは学者というより、遊び好きの小父さんだと思った。

 さて、数年前から、前々から読もうと思って読んでいない難しそうな本が三つあることに気づいた。マルクスの『資本論』、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、ファーブルの『昆虫記』である。まずマルクスとギボンを読んでみた。実にやさしくて面白い。つぎに奥本訳の『昆虫記』を読んでみた。これもすてきに面白い本だった。昆虫の世界の欲望のすさまじさ、だましあい、繊細な手術、ウームとうなりながら読んだ。私は子供のときに、ファーブルの要約本でなく、全訳書を読んでいたら、彼を遊び好きの小父さんとは思わなかったのにとちょっと反省した。しかし、ファーブル先生は、昆虫採集をして遊びながら一生を送った幸福な人だと、そんな気も私にはする。

●泥をこねて巣を造るハチ

【キゴシジガバチ】奥本大三郎

蟲の賜・4

 狩り蜂に刺されても大して痛くはない、とファーブルは書いている。狩り蜂の毒は獲物の虫の運動神経を麻痺させるためのものであり、それには量も沢山要らないし、毒性もそんなに強くなくてかまわないから、というのである。

 しかし私は小学五年生の時にスズバチに刺された痛さを未だに忘れない。腰の細い、大型の見事な蜂を採って、やれ嬉しやと、捕虫網の上からついうっかり撮(つま)もうとしてチクリとやられたのであった。もちろん、スズメバチのような、指の爪が壊死(えし)して、やがて取れてしまうほどの強烈な刺しではなかったが、それでも激痛の部類に入る痛さであった。

 採ったスズバチは、何とか毒壜(どくびん)に入れたけれど、刺された親指が見る見る腫れ上がった。その親指をそのとき傍(かたわら)にいた、父の運転手さんが吸ってくれた(この人はちょっとホモっ気があったように、今にして思うのだが、それはまた別の話)。

 そんなわけで、私は黄色と黒の、極端に腰が細いキゴシジガバチも、刺されたら結構痛い方の蜂ではないか、と睨んでいる。しかし、試みに刺されてみよう、というような研究心はない。そのうち採集に行って誰かこの蜂に刺されたら、どのくらい痛いか訊いてみたい、と人の不幸を期待しているのである。

『昆虫記』に登場するのはオウシュウキゴシジガバチと言って、日本産のキゴシジガバチとは別種であるが、見かけはよく似ている。私はフランスで二度、この蜂を採集している。

 一度はコルシカ島の山の中、ファーブルがアジャクシオで国立中等学校の教師をしていた時代によく植物採集などに出かけたバステリカという町の近くに於いて、であった。

 十人ほどのグループで小型バスに乗ってアジャクシオを発(た)ち、バステリカの町を経て、栗の巨木の生えているあたりで昼食を摂ろう、ということになった。

 林の中に小川が流れている。日向(ひなた)は暑いけれど湿度が低いから、木陰は涼しい。おまけにいい風が吹く。

 皆適当にそこらあたりの石や倒木に腰掛けてコルシカ名物の生ハムやソーセージを食い、栗のビールや濃い赤ワインを飲んでいると、実に快適で何も言う事はない。いい気分で木の梢を見上げて小鳥の声を聴いたり、木の葉から蝶の舞い飛ぶ姿にはっとして腰を浮かしかけたりしていると、浅い川の汀(みぎわ)の、泥の上で忙しそうに働いている虫が目に止まった。

 それこそまさにオウシュウキゴシジガバチであった。五、六頭いて、巣の材料の泥を取っているところ。しかしこの近所にこの蜂の好むような人工の構造物はないだろうと思う。どこまで運ぶのか、と考えながら、食事の間ももちろん傍に置いてあった捕虫網で採集した。

 今一度はローヌ河口のデルタ地帯、カマルグでのこと。自然写真家の海野和男さんと私は、スカラベを求めて、この有名な自然保護区に来たのであったが、七月の末では季節が悪く、スカラベの成虫は見ることが出来なかった。

 五月頃なら一番いい、とフランスの虫仲間に教えられてはいたのだけれど、それでも未練がましく、南仏の闘牛用の、真黒で竪琴型の鋭い角をした、恐ろしげな牛の柵の中を覗いてみたり、白い馬に乗って、ちょっとだけ湿地帯に入ってみたりしたのだが、スカラベの幼虫や蛹を見つけることは出来なかった。沢山いるのは鳥ばかり。フラミンゴやサギの仲間や白鳥が同時にいた。ここはヨーロッパの北からアフリカに渡る鳥たちの中継地点であるという。

 白い壁に茅葺き屋根の典型的なカマルグの家(マス)の、軒のあたりをふと見ると、オウシュウキゴシジガバチがこれまた典型的な泥の巣を造っている。ようし採集してやろうと、鋼鉄枠大口径の捕虫網を取り出したら、そこにいた学生風の若い観光客が、その網のものものしさに驚いてひゃーという感じで、「完璧(アンペツカーブル)」と叫んだ。

月報第8号 第4巻 下

渡辺正隆

「ナチュラリストの遺産」

 ファーブルの遺産はさまざまな分野に及んでいる。

 たとえば、これまでの『昆虫記』の定訳だった岩波文庫版の訳者は、日本の百科全書派の思想家として位置づけられる林達夫と、在野の思想家にして自由人、山田吉彦、またの名をきだみのるである。それだけではない。大正一一年に『昆虫記』を最初に訳したのは、かのアナーキスト大杉栄。それも、ファーブルとの出合いは獄中での読書だったというからすごい。あるいは、在野の才人平野威馬雄もファーブルに魅せられ、伝記を翻訳している。いずれもが、ある意味での自由思想家である点がおもしろい。

 それとは別に、ファーブルが残した最大の功績は、虫の行動観察が大人もまじめに取り組むに値する行為であることを世に知らしめた点かもしれない。そのことで、昆虫少年少女、あるいは昆虫青年たちがどれほど励まされたことか。そして今回の画期的な新訳がこの先及ぼす影響は計り知れない。

 ただ、日本の社会では、昆虫の行動観察や昆虫採集はあくまでも趣味の世界とされ、一生の職業としては成り立ちにくいものだった。大学の生物系に進学した昆虫少年少女たちのなかにも、ぼく自身を含めて昆虫とは直接関係のない研究分野を選んだ人々が多い。

 しかし、ファーブルの影響を順調に育み、昆虫行動の優れた研究者になった人も多い。その最たる例が、狩りバチの研究で世界的に有名な岩田久二雄(一九○四―九四)だろう。岩田が子供向けに著した『ハチの生活』(一九七四/岩波書店)は、今なお鮮度を失っていない名著である。この本を読むと、家の外壁に細い竹を吊し、狩りバチの巣作りを観察したくなること請け合いである。

 岩田の『ハチの生活』は、『ファーブル昆虫記』へのオマージュであり、元祖を大いに意識して書かれているのだが、大きな違いが一つだけある。「ハチの進化」をめぐる章が設けられていることだ。

 たとえばファーブルは、狩りバチが種類ごとに食物を選り好みする習性が徐々に進化したとはとうてい思えないといったことを書いている。それに対して岩田は、食物を一種の昆虫などに特殊化している狩りバチは、じつはそれほど多くはないという事実をまず指摘する。そもそも、狩りバチの幼虫は、食物の選り好みをほとんどしないではないかとも。もともと狩りバチは、自らが許容する食物の幅の範囲内で、生息場所の中で比較的手に入れやすい虫を狩る傾向があったのではないか。したがって、住み場所が変われば、食物の種類も変わる。新しい場所で種分化を起こせば、たまたまその場所に多い虫に、ある程度特化してゆくことも大いに起こりうる。そうやって、祖先種が分布を広げ、別々の場所に適応し種分化を起こす過程で、食物の選り好みの幅も狭まっていったのかもしれない。

 このような考え方に立つと、狩りバチが幼虫に与える食物の種類から、逆に狩りバチが進化してきたコースを遡ることも可能となる。生物の進化は、再現不能な一回こっきりの不可逆過程である。したがって、進化の筋道を実験で明かすことはできない。それに代わるやり方が、岩田が考えたような、食物の種類を比較したり巣の形状を比較することで、狩りバチがたどってきた進化の歴史を類推する方法なのである。

 日本が世界に誇るもう一人のハチ研究者が坂上昭一(一九二七―九六)である。坂上の専門は、狩りバチではなく花バチである。彼は主に北海道とブラジルの花バチの社会制を研究し、その進化史を明らかにした。その際、坂上が用いたのも、比較という方法だった。

 じつはこの、比較によって歴史を類推する方法こそ、ダーウィンが生物学にもたらした革命だった。生物は変わる、進化してきたという進化論を唱えた研究者は、ダーウィン以前にもいなかったわけではない。しかし、再現不能な進化という現象を科学的に解明する方法を提唱したのは、ほかならぬダーウィンが最初だったのだ。『種の起原』は、自然淘汰説のみを提唱した本ではない。歴史事象を扱う科学の方法について論じた「長い議論」なのだ。

 南フランスをフィールドにしたファーブルに対して、ダーウィンは、ロンドン近郊ケント州ダウンという寒村に居を構えていた。むろん気候温暖な南仏とは比べものにならないが、ダウンにも自然は息づいている。ダーウィンは一八四二年にこの村の旧牧師館を購入してダウンハウスと名づけ、ロンドンから移り住んだ。そして七三歳で息を引き取るまで、この屋敷で研究に専念した。その研究範囲は多岐にわたったが、花バチによるランの受粉に関する研究では、ダウンの丘陵に自生する野生ランとハチとの共進化の妙を解明している。また、子供たちを動員して、マルハナバチの飛行コースを追跡する観察も行なっている。

 ファーブルは鋭い観察眼を備えたすばらしいナチュラリストだった。同時代に生きたダーウィンも、それに劣らず優れたナチュラリストだった。いずれ劣らぬ両人だったが、一貫して進化論に異を唱え続けたファーブルに対して、ダーウィンは常に進化論という視点から自然を観察していた。そのため、昆虫の本能の不思議に驚嘆しつつも、いかに複雑精緻な行動であろうとも、もとは単純な行動から発達したにちがいないとの前提に立っていた。そして、ファーブルが首をかしげた、本能の完璧さを損なう間抜けな行動こそが、進化の道筋を明かす動かぬ証拠だと見抜いたのである。

 ショウジョウバエを用いた遺伝学の研究で偉大な業績を打ち立てた集団遺伝学者セオドシウス・ドブジャンスキー(一九○○―七五)は、テントウムシの研究から生物学者としての経歴をスタートさせた人で、自身、優れたナチュラリストだった。そのドブジャンスキーは、最晩年の一九七三年に、全米生物学教師連合の大会で有名な講演を行なった。そのタイトルは、ずばり、「進化を考えない生物学は意味がない」というものだった。これぞまさにダーウィンが打ち立てた偉業なのだ。

 しかし、冒頭でも書いたように、ファーブルが残した遺産も大きい。なにしろその影響は極東の日本にも及んでいるのだ。それは、ファーブルが優れたサイエンスライターであったことに由来するところが大きい。彼がひたすら専門家仲間向けの論文を執筆する人だったとしたら、後世にこれほどの影響は残さなかったにちがいない。そしてじつは、処女作『ビーグル号航海記』に始まって最後の著書『ミミズの作用による肥沃土の形成』(邦訳書名『ミミズと土』ほか)に至るまで、ダーウィンが残した著作の多くも、一般の読書人向けに書かれたものだった。

 慧眼と深い思索を活字に結晶させた二人のナチュラリストが後世に残した恩恵は計り知れない。ぼくも末席を汚す者の一人として、いくばくかの貢献をしたいと思っているのだが……。