「遊びとしての昆虫採集」
私は西大久保一丁目(今の歌舞伎町二丁目)で育った。花園神社のすぐ近くで、新宿の繁華街が近かったが、一軒一軒緑の多い庭のある住宅の並ぶ街だった。私の家の隣には、旧制一高の生物学の先生の家があり、さすがは専門家、多くの花壇に植物を植え、巨木の森のある広い庭を持っていた。たぶん、沢山の昆虫がそこに生息していたのだと思う。
夜、勉強していると窓からいろいろな虫が飛び込んできた。カンという音とともに果敢に机上のスタンドに衝突してくるのはカナブンブンで、まあ、刺したりの悪さをしないから、そのままにしておくと、本やノートの上を黒い背中を誇らしげに光らせながら歩いている。しかし、本の活字の上を這いだすと、つまんで夜の闇に投げ返してやる。テントウムシもずいぶんと来訪した。こちらは羽の紋様がいろいろで、勉強の疲れを癒してくれるようで見とれたものだ。
網戸を張って虫を部屋に入れないという排他の心をあのころの人間は持たなかったらしい。もっとも蚊は刺すので足元に渦巻き型の蚊とり線香をくゆらせて用心をしたが。まあ、それくらいが私の防衛で、虫と共存して暮らしていたのだ。
右は夏から秋にかけての夜の思い出であったが、夜は昆虫に対して寛大な私が、昼間、とくに夏の昼間になると、昆虫の捕獲に夢中になった。というのは夏休みの宿題として昆虫採集をする数人の友がいて、競い合って捕虫網を振り回し、三角紙や虫かごを持って、戸山ヶ原に出掛けたのだ。この陸軍の模擬演習をする練兵場は、演習のないときには子供たちの広々とした遊び場になった。省線電車(今のJR線)のすぐそばにあった三角山という丘は、洞窟があって沢山のコウモリが住んでいた。夕方コウモリが群れをなして飛び出すころに私たち子供は家路につくという寸法である。
この三角山から見渡すと戸山ヶ原の地形がよくわかった。草原、松林、塹壕といろいろで、そこを捕虫網を持って駆け回る。池はなかったのにトンボは沢山いた。花はそれほど種類がなく、むしろ荒涼とした荒れ地の様相であったのにチョウチョウはひらひらと飛んで私たちを誘った。あれらはどこから飛んできたのかと、私は今でも不思議に思っている。おそらく、私たちの知っていたのは広大な練兵場のほんの一部分であって、どこかに池でもあったのであろう。
採集した昆虫を展翅板(てんしばん)で形をととのえ、それから図鑑で名前を調べる。なんだか、自分が学者になったようで誇らしい気分になる。が、子供の私にはそれは学問ではなく、遊びなのであった。そのころファーブルの子供版を読んでいたが、ファーブルは学者というより、遊び好きの小父さんだと思った。
さて、数年前から、前々から読もうと思って読んでいない難しそうな本が三つあることに気づいた。マルクスの『資本論』、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』、ファーブルの『昆虫記』である。まずマルクスとギボンを読んでみた。実にやさしくて面白い。つぎに奥本訳の『昆虫記』を読んでみた。これもすてきに面白い本だった。昆虫の世界の欲望のすさまじさ、だましあい、繊細な手術、ウームとうなりながら読んだ。私は子供のときに、ファーブルの要約本でなく、全訳書を読んでいたら、彼を遊び好きの小父さんとは思わなかったのにとちょっと反省した。しかし、ファーブル先生は、昆虫採集をして遊びながら一生を送った幸福な人だと、そんな気も私にはする。