今から五十年前、既に私は身近かな昆虫の生態に夢中になって東京郊外をとびまわっていた。ファーブルと私の共通点は対象の種類を限定しないことである。
つまり「生きざま」の面白さに興味をもち、その謎ときの追跡に我を忘れて、時間さえあれば現場に行き、時には朝早くから、あるいは夜を徹して、その昆虫の行動をたしかめていることである。
こうした執拗な行動に私をかりたてたのが、終戦直後に読んだ文庫版の『昆虫記』であったことは間違いない。ファーブルはセミでもハチでも甲虫類でも、それが見られる場所に行ければ、何度でも何十回でも観察を続けている。
これが『昆虫記』の重みであり、魅力になっていると思う。
だから、当時旧制の中学生だった私はひそかにファーブルへのあこがれを、その昆虫を観察し、時には実験して行動をたしかめる方法を学ぶことに切りかえた。
その頃、日本の研究者は、大部分が農林業に関する昆虫つまり害虫を対象にしていた。農業国の日本は長い間害虫に苦しめられ、その駆除法や殺虫剤の開発が必要だったからである。
例外的に多くのアマチュアがいてファーブルをしのぐほどの観察を発表していたのは蝶の研究である。もっともこれも明治になってからのことで、せいぜい約百年ほどの歴史だが愛好者の数は抜群に多かった。
ごく身近かな昆虫を観察しつづける私が一番困ったのは、当時(昭和二十年代)一般的な昆虫学を学びたいと希望しても、東京の大学ではこうした講座はどこにもなかったことである。唯一あったのは東京教育大学で、土曜日の二時間だけ朝比奈正二郎先生の講義があったが、先生は国立予防衛生研究所の職員で非常勤だから教室はなかった。私は健康上の理由で通院のため、東京を離れることができず、京都か九州に行けば希望は叶えられると思ったが、結局地方には行けなかった。
多くの人は農学部の応用昆虫学を専攻し、結果的には農薬か殺虫剤を開発する会社に就職することになっていたのである。しかし、どうしてもオーソドックスな昆虫学を学びたかった私は、多くの啓蒙書を出していた東京学芸大学の古川晴男先生の教室に入ることにした。
結果的にはこれが再びファーブルの研究を見なおすきっかけとなった。ゼミナールでダーウィンの『種の起原』を読み、適者生存や自然淘汰の不明確な表現について議論したりしたが、この段階でもいかにファーブルの実証主義がもつ説得力がすぐれているかを改めて認識させられたのを覚えている。
昆虫学教室の学生だけで「ファーブル会」をつくり、古川先生が翻訳していくなかで感じたファーブルの物の考え方、昆虫を観る目の鋭さを評論し紹介していただいた。
ファーブルは一八四九年、コルシカで中学の教員になっていた二十五歳の頃から本格的に昆虫の習性に注目し観察を記録しはじめ、アカネやウリなどの植物研究にも打ち込んでいる。彼は学校では物理を教え、昆虫や植物は独学だが、およそ大学や専門学校では、どこでも手をとって教えはしない。日本でも特にフィールドワークによる調査は殆ど独学である。ただ、それを論文にまとめる時には、決められた項目に分け、あるスタイルをとらないと評価されない。ファーブルはこれを無視し、なまなましい現場での行動を伝えている。
だから読む人によく分かり、現場の状況までも汲みとれる。これが今でも、科学か?という批判の種になっていて、アマチュアのエッセーと同じように思い込む人が少なくない理由である。
しかし、私はファーブルがそう表現している理由がよく分かる。フィールドの結果はその人の思想のこもった観方であり、ファーブルの文体は、誰が何をいおうが、昆虫自身の動きを分断することなく伝える唯一の方法なのだ。もちろん今から百五十年も前のことで、科学の基本的概念すら確立されていなかった頃のことだから、誤りや思い違いがないとはいえない。だが、昆虫の行動の描写という点では他の追随を許さぬほど適切であり、すぐれている。
今度の奥本さんの翻訳はこの心をよく理解した上でのものなので、ファーブル本人の表現と思って間違いないと私は思っている。
大学を卒業して、私は古川先生の夢であった昆虫生態館にたずさわるようになったものの、教育関係者の中には見に来る人もあったが、世論は無関心のように思われた。
小さくて、大部分の昆虫は隠れてしまう習性のために展示は容易ではない。ここから私の格闘が始まった。事実、どんな昆虫もいつも動いているわけではないし、見せたい場面はあっという間のことで、それが過ぎれば箱の中にうずくまる虫がいるだけのつまらない展示物にすぎない。
社会全体の関心がうすく、虫はきらいという思いが満ちている中で、それでも面白さを少しでも分かってもらおうとする一人芝居は今考えても苦しいものであった。
そこに忽然と一人の紳士が私をたずねてきた。名刺には「国家公安委員 津田正夫」とある。元アルゼンチン大使であった津田さんは語学が堪能で、小説家・随筆家のW・H・ハドソンの著書からその人柄にひかれたといい、次にファーブルの『昆虫記』を読んで感銘をうけたという。
津田さんは、両者に共通しているのは独学で貧困な日々をおくり、フィールドで生きものの生態を自分の目でたしかめる実証主義に徹していることで、その上、表現力の豊かさが単なる観察記ではなく洗練された文学として人々の心をぐいぐいとらえて引き込むが、その力はすばらしいと熱っぽく話された。そしてファーブルの生地から亡くなる迄に転居した十三箇所の町や村を二回もたずね歩き、関係者に話を聞き、それを『ファーブル巡礼』(朝日ソノラマ刊)という本にして出版されている。
その本が刊行された一九七六年の春、私をたずねてこられたのである。元外交官なので当時のフランス大使とも親交があり、どうしても東京で「ファーブル展」を開きたいので力になって欲しいというのが来られた理由であった。
数人の同志と計画を練り、結果的に銀座の和光を会場に、ファーブルの生家から机や標本、『昆虫記』の原稿、そしてあの黒いつばの広い帽子などを送ってもらって展示した。
今から丁度三十年前のことだが、恐らく実物をフランスから日本にはこんで展示したのは、これが初めてであったと思う。
更に生家の前に立っているルーペで行列毛虫(ぎょうれつけむし)を観察しているファーブル像を日本で複製し、これをソニービルの前に四日間展示した。これらは和光やソニービルの社長さん達の協力のおかげだったが、それをブロンズ像にするほどの予算が無く、せっかくの彫像も粘土のため、姿を消すことになってしまった。
その上、この時「ファーブル友の会」を結成しようと津田さんは各方面によびかけ、約八百人もの名簿があったことを覚えている。しかし、現在と違って、そのリーダーの一人になっていた私は当時は公務員で、職をやめなければこの運動は続けられないと言われて断念したことが忘れられない。
半生のうちに何度もいろいろな形でファーブルに出逢い、今またその完訳に接する私の気持は、やっと陽のさしはじめた野道を、目指す昆虫を求めて胸をときめかして歩いて行く時に似ている。