月報 第3号・第4号

月報第3号 第2巻 上

安野光雅

「蟻から学んだこと」

 岩ちゃんという子の家の庭をよく探すと、太い鉛筆を差し込んだほどの穴があって、蓋らしきものが閉まっている。その近くを蟻でも通ろうものなら、何か異形のものが電光石火、その通行人を引き込んだ。蟻はその鬼の餌食らしい。そこは巣穴で、蓋ともども、そーっとひきあげると、ちょうど穴の形とそっくりの、丈夫な糸で編んだ巣がとれた。巣を逆さにしてつつくと、はたせるかな何かいた。岩ちゃんはそれをケンカグモと呼んでいた。わたしたちはめいめい、その異形のものを取り出し、二匹を合わせ、夢中になって戦う彼らを我がことのように声援した。あとはどうなったか知らないが、いつ行っても巣穴があったから、死ぬまで戦うわけではないのだろう。

 我が家の縁の下を探すと、小さいすり鉢状の穴が見つかった。たとえば蟻が一歩でもこのすり鉢穴の縁を通りかかったら、この大砂漠に脚をとられ、もはやどうもがいても穴の底まで落ちていかねばならなかった。底には、えたいの知れない虫が待ち構えていて、蟻はその餌食になった。これを蟻地獄といい、その底にいた鬼はなんとウスバカゲロウの幼虫であることを後で知った。

 庭には金だらいほどの池があって親父が惰性で金魚やめだかを生かしていた。いつの頃からか、わたしがミズスマシと呼んでいた虫がいるのだ。もっとも後でわかった一般の名前はアメンボウだったが、彼が空を飛んで我が家の池に来るほどの用はないだろうに、と不思議だった。

 池には苔の生えた小さい石の島があった。いわば孤島である。わたしは、ロビンソン・クルーソーの気持ちになり、池の周りにいた蟻を木の葉に乗せ、その島に漂着させてやった。彼にフライデーはいないし、船に残した食料もない。その代り、わたしが思いつくままに、島に砂糖や、蝉の死骸を置いてやることもあった。それにしても少年のなんと無責任にして忘れっぽいことだろう。蟻がいつ大陸へ生還したかは知らない。

 梅の木の下を行く蟻を見つけ、蟻のすぐ上にあった梅の葉っぱに登らせてやったこともある。彼があの葉っぱまで行きたいと思っていたのなら、なんとも近道をさせてやったことになるのだが、そうでなかったら、彼は殆ど地球を一周するほどの道を行かないと、もとの場所へと戻ることができない、と考えて暗然とした。

 砂糖と塩を混ぜておくと、蟻はどうするか。洗面器に作った島に砂糖を置き、割り箸の橋を架けておくと彼らはどうするか。二階から蟻を落としたらどうなるか。答えは言わない。それらはみんな、後に小学校の臨時教員になって復習した。

 少年雑誌で読んだのだが、土を詰めたガラスの広口瓶に砂糖を入れて庭に置き、蟻がどっさり入ったところで網の蓋をすれば、蟻はガラス瓶の中で地下道風の巣穴を作るというのである。本当にそうだった。

 彼らが自分の体よりも大きい蝉の屍を、みんなで曳いて行くのを見たこともある。それどころか、土と砂を固めて、長いトンネルの道を造成していた。少し壊してみたら、その中をすたすたと蟻が行き来しているのだった。彼らは実に勤勉に迅速に、命がけで仕事をした。わたしは昆虫採集をしなかった代りに、蟻から多くのものを学んだのだ。

●動物行動学の黎明を開いた狩りバチの観察

【シロスジアナバチ】奥本大三郎

蟲の賜・2

 洪水で半分流された、あの有名な「アヴィニョンの橋」、つまりサン=ベネゼ橋や街の城壁をひとわたり見る、ローヌ河遊覧の船を降りて船着き場の橋を渡ったとき、叢(くさむら)に何か朱色のものの動くのがちらと見えた。最近目が衰えて近くの小さい物は見えにくくなった私だが、まだ動体視力はいいらしく、生き物の動くのに対しては目ざとい。

 さっと腰をかがめて近寄ってみると体が黒く、腰の半分が赤いアナバチが、砂地に生えた草の根元の丸い穴の中に入って行くのが見えた。

 この場所こそはまさに第1巻9章でファーブルが「キバネアナバチがバッタを狩っている」という、彼にとっては不可解きわまる光景を目撃したところであろう。ファーブルは、こう書いている。

 場所はローヌ河の堤防であった。片側は音をたてて滔々(とうとう)と流れる大河で、もう一方の側は柳の類や葦が茂った深い藪になっている。このあいだにこまかい砂地の細い小道があった。一頭のキバネアナバチが現われた。パーッ、パーッと、小きざみに飛びながら獲物を引きずっている。

 いったい何を私は見ているのだろう! 獲物はコオロギではなくて普通のバッタではないか!

 キバネアナバチがコオロギではなくバッタを狩るなんて、と驚いたファーブルが必死になって観察を始めた時、二人の新兵さんが歩いてくるのである。その結果がどうなったかについては本文をお読みになっていただきたい。

 私は必死になってカメラを構えた。ファーブルの時代と違って、今では柳の茂みも葦も刈り取られ、堤防ぎりぎりまで舗装されて車が猛スピードで走って行く。そしてローヌ河には、我々の乗った小さな遊覧船の他に、アメリカ人観光客用のシャンパンのサーヴィスされる食事付きの豪華客船まで浮かんでいるけれど、ハチだけはどうやら同じようである。

 ぐっと近づいて撮影するために私は堤防に腹這いになった。ハチが巣穴の中から頭を出す。デジタルカメラで私はジャクリ、ジャクリと接写した(私のカメラはシャッターを押すたびにそんな音がするのである)。

 ハチは砂まみれになって巣穴から出てくると、体を地面にこすりつけるようなことをしてからまた中に入って行く。かと思うと外に出て中の砂を少し掃き出す。そしてまた中に入る。この繰り返しである。

 時々、人が通る。きっと変な顔をして見ていることであろうが構ってはいられない。ファーブルも新兵なんか気にすることはなかったのだ。

 ふと、写真がちゃんと写っているかどうか私は心配になった。デジタルカメラはこれが便利なところで、その場で直ちに確認できるのである。しかし、ああ、何ということか! 全部ピンボケ、接写機能が全く働いていないのだ。

 ファーブルは新兵さんに邪魔されたが、私は現代技術の粋を集めたカメラにダマされてしまった。

 仕方がない。接写モードで撮った画像を全部消して少し離れて撮ってみる。ありがたい! それでも何とか写るではないか。

 暑い日であった。じりじりと焼ける太陽のもとでハチが巣穴から顔を出すたびにジャクリ、ジャクリとシャッターを押す。気がつくとアヴィニョンからパリに行くTGVの時間が迫っている。その前にレンタカーも返さなければならない。

 えい、ハチを採集してしまおうとビニール袋を上から被せたら、手元が狂ってさっと逃げられてしまった。獲物を確かめてみたいけれど、巣穴を掘る時間がない。何とも心残り、まさに後髪を引かれる思いで現場を後にした。

 日本に帰って、撮った写真を拡大して見ると、件(くだん)のハチはシロスジアナバチのようであった。それなら獲物はバッタでよいはず。ファーブルの見たのはこのハチの遠い先祖だったのではあるまいか。

月報第4号 第2巻 下

新妻明夫

「たぐい稀な科学書作家」

 意味のない偶然の一致だとわかっていながら、つい気になってしまうことがある。

 ファーブルは一八九三年、六九歳の初夏に、今日の言葉でいえば「性フェロモン」の存在を予言した。オオクジャクヤママユという蛾の雄が遠くから雌のところに飛んでくるのは、雌が目に見えない未知の物質を大気中に発散しているからだと推測したのである(第7巻23章)。多数の蛾がファーブル家に殺到した五月六日の夜を、彼は「オオクジャクヤママユの夜」と呼んで記念した。それから五六年後の一九四九年の五月六日、札幌で私が生まれた――これ以上に無意味なことはない。

 しかし、もうひとつの偶然の一致には、意味があるかもしれない。ファーブルは一八二三年一二月二一日、南フランスの山村サン=レオンで生まれた。同年の一月八日、英国ウェールズ地方の片田舎ウスクで博物学者ウォーレスが生まれた。ファーブルは一九一五年一○月一一日に九一歳で、ウォーレスは一九一三年一一月七日に九○歳で他界した。つまりは、完全な同時代人である。

 ウォーレスはダーウィンとは別に進化の自然選択説に到達し、二人の進化論は一八五八年七月一日にリンネ学会で連名発表され、そのことがダーウィン『種の起原』(一八五九年)の執筆をうながした。その後もウォーレスは進化論の研究を深め、自然選択説を「ダーウィニズム」と呼び、ダーウィンと彼の進化論を支持しつづけた。

 ファーブルはダーウィンの進化論に強固に反対しつづけたので、その点では二人は正反対の立場をつらぬいた。しかし、私がこだわる偶然の一致は、同時代人ということだけではない。二人はともに下層ないし中流下層階級の出身であり、生涯を在野の科学者として生物の研究にささげた。二人とも定職とは相性が悪かったらしく、生活費を稼ぐ手段は「文筆業」だった。ファーブルは『昆虫記』第一巻(一八七九年)以前に三八冊の本を書き、全生涯の著作数は、『昆虫記』全一○巻を除いても六○冊以上。ウォーレスは著作数こそ二一冊にとどまるが、雑誌や新聞に掲載された論文や記事の総数は七○○編を超える。二人がこれほど多産でいられたのは、第一に、文才に恵まれていたからだろう。

 ダーウィンとウォーレスの往復書簡集を通読してみると、自分の進化論を簡潔明瞭に説明し主張してくれるウォーレスを、ダーウィンは幾度となく称賛している。むしろ、書き手としてウォーレスに期待し、自分の代わりに書かせている感さえある。

 ファーブルの『昆虫記』第一巻を読んだ晩年のダーウィンは、この反進化論者に手紙を書き、帰巣本能と方向感覚についての実験を提案した(第2巻7章)。手紙のやりとりを読んでみると、この「たぐい稀な観察者」の実験手腕を高く評価しただけでなく、「たぐい稀な書き手」が観察結果をわかりやすい文章で書いてくれることを期待していたのではと思える。ファーブルから実験結果の報告を受けたダーウィンは返信に、「もちろん、この問題について私の名前をあげてかまいません」と書いた。おそらく若い共同研究者を見つけた思いなのだろう。

 ファーブルとウォーレスが多作でありえたもうひとつの理由は、時代が彼らの書いたものを求めていたからだ。ウォーレスの経歴を調べていると、彼が雑誌で勉強し、雑誌を通じて学界にデビューしたことがわかる。雑誌で著名な学者の論文を読み、独学青年でも自分の研究成果を投稿できた。やがては、自分が著名な学者として寄稿することになる。

 英国ではウォーレスが独学をはじめた一八四○年代に印刷税などが引き下げられ、各種の雑誌が矢継ぎ早に発刊された。月刊で一シリング、いまの日本円で千円から二千円の間だろう。庶民でも月に一冊なら買えない値段ではない。ロンドン動物園の入園料も、万博の庶民向け入場料も、絵画展など催し物の入場料も、一律に一シリングだった。要するに、政府や支配階級の政策だったらしい。都市に流入した下層労働者に、安息日の日曜をどう過ごさせるかが大問題だった。教養と健康を軸とした文化政策と見ていいだろう。

 ドーバー海峡を挟むフランスではどうだったのか。今回、ファーブルの著作を読み返してみて、雑誌よりも啓蒙書が主流だったという印象を受けた。ファーブルが師範学校の給費学生だったことを考えると、教育制度が確立される初期の時代だったのだろう。しかし彼が教育現場から追放された原因が、「成人学級」での講義内容だったことを考えると、学校がまだまだ未整備な時代だったようだ。そういう社会では啓蒙書は重要な媒体だっただろう。

 いま入手できる邦訳は岩波書店の『ファーブル博物記』全六巻と平凡社の『ファーブル植物記』。内容は多岐にわたり、岩波の『博物記』各巻の主題は、害虫学、野生動物学、畜産学、家政学、植物学、科学技術史である。未邦訳の本のなかには、数学、化学、物理学、地学や天文学の入門書もある。彼は、化学についてはアカネの染料抽出を研究していたが、昆虫学以外の分野は専門ではない。独学で勉強したわけである。その成果を、誰にでもわかる文章にして提供した。一部は学校の教科書に採用されたが、読者の多くは一般の庶民だろう。うらやましいほど版を重ねたものが少なくない。「たぐい稀な科学書作家」であり、さらに「人気作家」でもあった。

 人気の理由のひとつは、題材が身近だからだろう。私のお気に入り『身のまわりの科学』(『博物記』第四巻)では、たとえば布団とアイロンの柄(え)から物理学の「熱伝導」へと、オーロラおばさんと姪たちの会話がはずんでいく。『発明家の仕事』(同、第六巻)の科学技術史を読んでいると、書き手も読者も科学による社会と生活の改善に期待していることがわかる。社会の底辺からの熱気のなかで、ファーブルは科学による啓蒙に寄与しようと本を書き、読者は科学的な知識や考え方を学ぼうと本を読んだのだろう。

 ファーブルは独学で科学啓蒙書を書き、庶民はそれを読んで独学する。『植物記』の原題は、当時の身近な燃料だった『薪の話』。第一章は、なぜか刺胞動物「ヒドラ」の話。植物と動物との共通点と相違点が説明されるのだが、こんな発想は専門の植物学者には絶対にできない。学校という制度が確立される以前とはいえ、独学でする勉強や研究の、なんて自由で楽しげなことか。

 ファーブルとウォーレスも独学の人だった。本や雑誌で、独りで勉強した。そして歴史に名を残す成果をあげた。では、いまの時代に独学はありうるのだろうか。私事で恐縮だが、小学校はともかく、中学と高校で勉強が楽しいと思ったことはない。学校がなくなればと、何度も思った。

 今日、研究者たちは巨大な情報体系にただ黙々とデータを提供するばかりで、奥本氏の指摘のとおり、“「言葉」を失いがち”だ(第1巻上、7頁)。誰もが膨大な情報網の暗闇で道に迷い、足元さえあやしい。要するに、社会全体が「言葉」を失っている。しかし、中学生のころ、誰もが一度ぐらいは勉強しなくてはと思い立ったことがあるだろう。本を引っ張り出し、ぶつぶつと独り言をいっていなかったか。そして頭のなかで言葉がうまくつながったとき、「あっ、そうか!」となる。考えたり理解したりとは、頭のなかで「言葉」を紡ぎ出し、それを織物にしていくことなのだ。

 本で独学して科学啓蒙書を書いたファーブルは、さらに昆虫の習性を独りで観察し、その意味を読み解いて「言葉」を紡ぎつづけた。その成果を織り上げ、美しい文章で読者に語りかける『昆虫記』は、彼の生涯をかけた独学の集大成である。それを読む今日の読者も、頭のなかで「言葉」を紡ぎながら独学するだろう。もちろん、私もその一人だ。