意味のない偶然の一致だとわかっていながら、つい気になってしまうことがある。
ファーブルは一八九三年、六九歳の初夏に、今日の言葉でいえば「性フェロモン」の存在を予言した。オオクジャクヤママユという蛾の雄が遠くから雌のところに飛んでくるのは、雌が目に見えない未知の物質を大気中に発散しているからだと推測したのである(第7巻23章)。多数の蛾がファーブル家に殺到した五月六日の夜を、彼は「オオクジャクヤママユの夜」と呼んで記念した。それから五六年後の一九四九年の五月六日、札幌で私が生まれた――これ以上に無意味なことはない。
しかし、もうひとつの偶然の一致には、意味があるかもしれない。ファーブルは一八二三年一二月二一日、南フランスの山村サン=レオンで生まれた。同年の一月八日、英国ウェールズ地方の片田舎ウスクで博物学者ウォーレスが生まれた。ファーブルは一九一五年一○月一一日に九一歳で、ウォーレスは一九一三年一一月七日に九○歳で他界した。つまりは、完全な同時代人である。
ウォーレスはダーウィンとは別に進化の自然選択説に到達し、二人の進化論は一八五八年七月一日にリンネ学会で連名発表され、そのことがダーウィン『種の起原』(一八五九年)の執筆をうながした。その後もウォーレスは進化論の研究を深め、自然選択説を「ダーウィニズム」と呼び、ダーウィンと彼の進化論を支持しつづけた。
ファーブルはダーウィンの進化論に強固に反対しつづけたので、その点では二人は正反対の立場をつらぬいた。しかし、私がこだわる偶然の一致は、同時代人ということだけではない。二人はともに下層ないし中流下層階級の出身であり、生涯を在野の科学者として生物の研究にささげた。二人とも定職とは相性が悪かったらしく、生活費を稼ぐ手段は「文筆業」だった。ファーブルは『昆虫記』第一巻(一八七九年)以前に三八冊の本を書き、全生涯の著作数は、『昆虫記』全一○巻を除いても六○冊以上。ウォーレスは著作数こそ二一冊にとどまるが、雑誌や新聞に掲載された論文や記事の総数は七○○編を超える。二人がこれほど多産でいられたのは、第一に、文才に恵まれていたからだろう。
ダーウィンとウォーレスの往復書簡集を通読してみると、自分の進化論を簡潔明瞭に説明し主張してくれるウォーレスを、ダーウィンは幾度となく称賛している。むしろ、書き手としてウォーレスに期待し、自分の代わりに書かせている感さえある。
ファーブルの『昆虫記』第一巻を読んだ晩年のダーウィンは、この反進化論者に手紙を書き、帰巣本能と方向感覚についての実験を提案した(第2巻7章)。手紙のやりとりを読んでみると、この「たぐい稀な観察者」の実験手腕を高く評価しただけでなく、「たぐい稀な書き手」が観察結果をわかりやすい文章で書いてくれることを期待していたのではと思える。ファーブルから実験結果の報告を受けたダーウィンは返信に、「もちろん、この問題について私の名前をあげてかまいません」と書いた。おそらく若い共同研究者を見つけた思いなのだろう。
ファーブルとウォーレスが多作でありえたもうひとつの理由は、時代が彼らの書いたものを求めていたからだ。ウォーレスの経歴を調べていると、彼が雑誌で勉強し、雑誌を通じて学界にデビューしたことがわかる。雑誌で著名な学者の論文を読み、独学青年でも自分の研究成果を投稿できた。やがては、自分が著名な学者として寄稿することになる。
英国ではウォーレスが独学をはじめた一八四○年代に印刷税などが引き下げられ、各種の雑誌が矢継ぎ早に発刊された。月刊で一シリング、いまの日本円で千円から二千円の間だろう。庶民でも月に一冊なら買えない値段ではない。ロンドン動物園の入園料も、万博の庶民向け入場料も、絵画展など催し物の入場料も、一律に一シリングだった。要するに、政府や支配階級の政策だったらしい。都市に流入した下層労働者に、安息日の日曜をどう過ごさせるかが大問題だった。教養と健康を軸とした文化政策と見ていいだろう。
ドーバー海峡を挟むフランスではどうだったのか。今回、ファーブルの著作を読み返してみて、雑誌よりも啓蒙書が主流だったという印象を受けた。ファーブルが師範学校の給費学生だったことを考えると、教育制度が確立される初期の時代だったのだろう。しかし彼が教育現場から追放された原因が、「成人学級」での講義内容だったことを考えると、学校がまだまだ未整備な時代だったようだ。そういう社会では啓蒙書は重要な媒体だっただろう。
いま入手できる邦訳は岩波書店の『ファーブル博物記』全六巻と平凡社の『ファーブル植物記』。内容は多岐にわたり、岩波の『博物記』各巻の主題は、害虫学、野生動物学、畜産学、家政学、植物学、科学技術史である。未邦訳の本のなかには、数学、化学、物理学、地学や天文学の入門書もある。彼は、化学についてはアカネの染料抽出を研究していたが、昆虫学以外の分野は専門ではない。独学で勉強したわけである。その成果を、誰にでもわかる文章にして提供した。一部は学校の教科書に採用されたが、読者の多くは一般の庶民だろう。うらやましいほど版を重ねたものが少なくない。「たぐい稀な科学書作家」であり、さらに「人気作家」でもあった。
人気の理由のひとつは、題材が身近だからだろう。私のお気に入り『身のまわりの科学』(『博物記』第四巻)では、たとえば布団とアイロンの柄(え)から物理学の「熱伝導」へと、オーロラおばさんと姪たちの会話がはずんでいく。『発明家の仕事』(同、第六巻)の科学技術史を読んでいると、書き手も読者も科学による社会と生活の改善に期待していることがわかる。社会の底辺からの熱気のなかで、ファーブルは科学による啓蒙に寄与しようと本を書き、読者は科学的な知識や考え方を学ぼうと本を読んだのだろう。
ファーブルは独学で科学啓蒙書を書き、庶民はそれを読んで独学する。『植物記』の原題は、当時の身近な燃料だった『薪の話』。第一章は、なぜか刺胞動物「ヒドラ」の話。植物と動物との共通点と相違点が説明されるのだが、こんな発想は専門の植物学者には絶対にできない。学校という制度が確立される以前とはいえ、独学でする勉強や研究の、なんて自由で楽しげなことか。
ファーブルとウォーレスも独学の人だった。本や雑誌で、独りで勉強した。そして歴史に名を残す成果をあげた。では、いまの時代に独学はありうるのだろうか。私事で恐縮だが、小学校はともかく、中学と高校で勉強が楽しいと思ったことはない。学校がなくなればと、何度も思った。
今日、研究者たちは巨大な情報体系にただ黙々とデータを提供するばかりで、奥本氏の指摘のとおり、“「言葉」を失いがち”だ(第1巻上、7頁)。誰もが膨大な情報網の暗闇で道に迷い、足元さえあやしい。要するに、社会全体が「言葉」を失っている。しかし、中学生のころ、誰もが一度ぐらいは勉強しなくてはと思い立ったことがあるだろう。本を引っ張り出し、ぶつぶつと独り言をいっていなかったか。そして頭のなかで言葉がうまくつながったとき、「あっ、そうか!」となる。考えたり理解したりとは、頭のなかで「言葉」を紡ぎ出し、それを織物にしていくことなのだ。
本で独学して科学啓蒙書を書いたファーブルは、さらに昆虫の習性を独りで観察し、その意味を読み解いて「言葉」を紡ぎつづけた。その成果を織り上げ、美しい文章で読者に語りかける『昆虫記』は、彼の生涯をかけた独学の集大成である。それを読む今日の読者も、頭のなかで「言葉」を紡ぎながら独学するだろう。もちろん、私もその一人だ。