月報 第1号・第2号

月報第1号 第1巻 上

養老孟司

「ボクの虫捕り」

 ボクが子どもだったころ、虫はたくさんいた。子どもが虫をとるのはフツーで、それを残酷だなんていう人はいなかった。セミをとり、トンボをとるのは当たり前だった。それが少し高級になると、昆虫採集になった。

 小学校四年生の夏休みに、昆虫の標本を作って、学校に提出した。虫捕りが夏休みの勉強だった。それが奨励されていたのだから、いい時代だったとしみじみ思う。子どもは子どもらしくしていられたのである。針には留め針を使ったと思う。本当はそれがダメで、いずれ針が錆びてしまう。それに留め針は太くて短いから、いろいろ具合が悪い。カブトムシなんか大きすぎて、針のほとんどがカブトムシの体内にとどまってしまうのである。でも専門の針なんて、買えなかった。お金がないのではなくて、売っていなかったのだと思う。

 箱がなかったから、家のどこかに転がっていた、タンスの引き出しを使った。引き出しの底は堅くて、針が刺せない。だから箱に虫を並べる位置を決めて、ビンのフタに使うコルクの栓を切って、箱の底に張った。そのコルクに針を刺せばいい。箱の底全体に敷き詰めるほど、ビンの栓がなかった。

 ところが、引き出しにはフタがない。フタがないから、虫はむき出しだった。むき出しでは保存できない。この引き出しはずいぶん大きな引き出しで、だからボクの標本が、虫の数からすれば、学校で第一位だった。学校まで運んでいくのも大変だった。しかも全部、ちゃんと甲虫だった。でもフタがないから、先生に誉めてもらえなかった。

 どうして虫捕りを始めたんですか、とよく訊かれる。幼稚園のときはカニ取りだった。川岸の石垣の間に、ベンケイガニが入っている。それを割り箸で追い出して、捕まえる。バケツの底が重なり合ったカニで埋まるくらい、いつも捕った。夏になれば、トンボ取りやセミ取りは毎年だった。あとは川に入って、魚を捕った。だから昆虫採集という形にしただけで、捕るほうは、はじめから捕っていたのである。いうなれば小さな狩猟採集民で、人類の歴史そのままであろう。個体発生は系統発生を繰り返すのである。

 採集品に針を刺して、保存するようになったのが、人類でいうなら農業の始まりである。それではじめて虫が「溜まる」ようになった。それだけではない。溜まった虫を整理する必要がある。放っておけばカビが生えるし、虫が虫に食われる。溜まった標本の面倒を見てやらなくてはならない。中学ではその段階に入った。田んぼや畑を維持するという、農業でも「手入れ」の時代になったのである。

 高校になったら、虫好きの友達を集めて、雑誌まで出すようになった。都市化がはじまり、ジャーナリズムが成立したのである。いまでは虫が溜まりすぎて、置くところを作らなければならなくなった。虫だらけで部屋が十分には使えない。都市化が進行して、公害問題があちこちに生じてきたのである。

 虫を置くところを作るには、お金がかかる。そのお金も稼がなければならない。お金になりそうなことは、なんでもする。資本主義が始まったのである。それが大変で、虫を捕る暇が少なくなった。虫を捕る暇を割いて、虫について原稿を書いたりする。都会の人が自分はなんのために働くのか、それがわからなくなっているのと一緒である。虫を見ているほうが楽しいはずである。

 ところがいまの人は、虫より字を見て、字よりもテレビの画面を見る。ボクも虫のペニスを顕微鏡で写真にとって、パソコンで見ていたりする。世の中がついにヴァーチャルまで進化したのである。それより現物の虫を見たほうが面白いのに。草葉の陰で、ファーブルはそういっているはずである。

●なぜ、『昆虫記』はスカラベから始まったのか

【スカラベ・サクレ】奥本大三郎

蟲の賜・1

 およそあらゆる昆虫の行動の中でもっとも人の注意を惹く、奇異で、不可思議なものは、糞の球を転がすスカラベの仕事ぶりと、イモムシやクモなどの獲物を引き摺って行って穴に埋める狩り蜂のそれであろう。

 そのほかにも、もちろん感嘆するしかないような行動をとるものは昆虫の世界にいくらでもいるけれど、それらはよほど注意深く観察しなければ見えないし、その意味も解らない。

 だからこそスカラベは古代エジプトで太陽神ケプリの化身とされ、狩り蜂は中国の博物誌や日本の虫譜にその行動が記録されたのである。

『昆虫記』第一巻の第一章にこのどちらを登場させるべきか、ファーブルは思案したに違いない。両者の中、より派手で面白い方、と考えたら、やはりスカラベは狩り蜂に勝る。凹凸に富む野原を多少の障害物をものともせずコロコロと忙しく糞球を転がしていくスカラベの格好の面白さは子供にも解る。それに対し狩り蜂の戦いと穴掘り仕事はより神秘的で難しいからである。

 しかし自分の新発見を強調し、前面に押し出すのであれば、ゾウムシを狩るコブツチスガリの生態をまず叙述するべきであった。これこそはファーブルの大発見であり、レオミュール、レオン・デュフールらが手を染めた昆虫行動学の記念碑となるものであった。

 蜂が獲物の死体に防腐剤などを注入するのではなく、獲物は生きていること、単に運動神経を麻痺させられて動けないだけであることを証明して、彼はアカデミーの実験生理学賞を受賞している。

 一方、第一巻を書き始めた時点でスカラベの観察はいかにも未完成なものであり、飼育にも失敗しているのである。

『昆虫記』は学術的に優れたものであるだけではなく、絶対に面白くなければならなかった。そして後世に残るものでなければならなかったのである。

 ファーブルは学者としての出世は早々と諦めていた。「財産はおありですか?」同じように大学教授の道を諦めていた一人の視学官からそう訊かれて、はっきり自分の置かれた状況について悟っていた。それに学術上の結論だけを硬い難しい用語を使って記した論文を素人の誰が読むのか。もちろん同じテーマを専攻する学者、あるいは同業者は読む。ある時には感嘆しながら、ある時には羨望と嫉妬の念を持って、またあるときには何とかその論を覆してやろうとアラ探しの目で読む。ファーブルは、自分にとって何が面白かったか、そして一般の読者にとって何が面白いだろうと考えてみたはずである。

 昆虫の行動の謎を解こうと考えをめぐらせ、あれこれと実験の工夫をするときの苦心と、それが見事にあたり、光明が仄(ほの)見えたときの発見の鋭い喜び。それをこそ、読者に伝えたいと彼は考えたのである。

 確かに、得られた結果は貴いものであるけれど、それはある意味で発見者が味わい尽くしたヌケガラのようなものでしかないとも言えよう。

 たとえばその結果を子供に教えてみる。すると感心はするけれどすぐに忘れてしまったりする。忘れないよう、暗記させ試験をする。すると、なるほどよく覚える。しかし、その勉強は大抵苦痛となり、楽しかるべき知識が憎むべきものとなることさえある。独学で知識を得たファーブルにとって、知識はほとんど人生から闘い取るべきものであった。彼は少しずつそれらを自分のものにしていった時の苦しみと喜び、博物学者としての想い出を『昆虫記』の中に織り交ぜ、それが優れた文学となっている。文学と科学との幸福な調和――それが博物学である。

月報第2号 第1巻 下

幸島司郎

「動物行動学の父ファーブル」

「ファーブルみたいですね」と言われたことがある。二十五年ほど前、私は「雪虫」という真冬の雪の上で活動する奇妙な虫を研究していた。うかつにも雪の上にうずくまって虫を観察している所を見つかってしまったのだ。「あんたの方が虫よりよっぽど珍しい」とも言われた。その時はかなり恥ずかしかったのだが、今から思えば名誉なことだと思う。

 ファーブルは比類の無い野外観察者(フィールドワーカー)であると同時に、徹底した実証主義の人でもあった。虫たちの不思議な生活を、詩情あふれる文章で綴った『昆虫記』は、まず好奇心にもとづいて観察し、その過程で生まれてきた疑問に対して仮説をたて、実験や観察によって検証するという博物学的科学精神の書でもある。実際、彼は『昆虫記』の中で、素朴ではあるが様々に工夫を凝らした実験を行っている。その多くは獲物を運ぶ狩りバチの行く手に障害物を置いたりする簡単なものだが、「ではひとつ、虫たちに聞いてみることにしよう」などの言葉で始まる彼の実験は、百年以上たった今も、我々の好奇心を十分に刺激して、どきどき、わくわくさせてくれる。もちろん彼の実験には今から見ると不備も多く、後にその結果が間違いであったと判明したものもある。しかし、ファーブルが行った実験や観察は、まだ「生物学」が博物学の一部であり、「生態学」や「行動学」は、その名さえ無かった時代に、動物の行動と言う、形態などに較べ非常にとらえどころのない対象を相手にした、最初の実証的研究として高く評価されるべきだろう。同時代の偉大な博物学者、チャールズ・ダーウィンも、ファーブルの研究に敬意を表し、彼の進化論の書である『種の起原』を謹呈している。

 しかし、ファーブルは反進化論の人でもあった。『昆虫記』の中でもしばしば進化論を批判している。昆虫たちの、一分の隙もないほど精妙で合目的的な行動を知り尽くしていたファーブルには、それらの行動が、キリンの首が少しずつ長くなるような過程で進化するとは、到底信じられなかったのである。たとえばイモムシを狩って幼虫の餌にする狩りバチの仲間は、イモムシを殺して腐らせることなく、しかも暴れて幼虫に危害を加えないように、イモムシの各体節にある神経節を一つ一つ毒針で探り当て、適量の毒を注入して麻痺させた後、決まった場所に卵を産みつける。ファーブルは、この過程が少しでも狂うと、例えば毒針を刺す位置や、卵を産みつける場所が少しでもずれると、幼虫がうまく育たないことを実験的に示している。したがって、このような首尾一貫した行動は徐々に進化したはずはなく、最初から完璧でなければ虫たちは生き残れないと考えたのである。昆虫の行動に関する深い理解を持つファーブルを敬愛していたダーウィンは、この批判を重く受け止め、『種の起原』の第五版では、自分の理論は昆虫の行動の進化には適用できないと明記している。

 進化論には否定的であったが、ファーブルは昆虫の行動の多くが遺伝的なものであることを認めていた点で先進的だった。たとえば、狩りバチの幼虫は親の行動を見る機会がないにもかかわらず、親になれば正確に獲物を処理することができるからだ。『昆虫記』の観察や実験の多くは、虫たちの行動が生まれつきの「習性」や「本能」にもとづくもので、「知能」にもとづく人間の行動と違って、融通が利かないことを示したものである。たとえば、巣穴に獲物を運び込み卵を産みつけ終わったアナバチは、たとえ獲物と卵を除去されても、空っぽと分っている巣穴の入り口をていねいに塞ぐ行動を最後まで行う。人間のような知能、新たな状況に対して論理的に判断して行動する能力があれば、再び獲物を捕りに出かけるか巣穴を放棄することだろう。つまりファーブルは、本能的な行動の存在と特性を初めて実証的に明らかにしたのである。

 ファーブルが『昆虫記』で明らかにした本能的行動の研究は、その約半世紀後、コンラート・ローレンツやニコ・ティンバーゲン、カール・フォン・フリッシュらによって、ようやく継承・発展され、動物行動学(Ethology)という学問分野として確立された。いずれもファーブルに劣らぬ野外観察者(フィールドワーカー)である三人は、この功績によって一九七三年のノーベル医学生理学賞を共同受賞した。

 現在の動物行動学では、本能的(instinctive)行動は生得的(innate)行動と呼ばれ、生まれながらに実行できる遺伝的行動と理解されている。そして多くの生得的行動が、普段は抑制されている遺伝的にプログラムされた行動パターンが、特定の色や匂いや形などの鍵刺激を感じることによって解き放たれるしくみ(生得的解発機構)として説明されている。たとえばモンシロチョウのオスの交尾行動は、紫外線を反射するメスの白い翅(はね)という視覚刺激によって解き放たれる。したがって、オスは本物のメスばかりでなく、紫外線を反射する白い紙片に対しても交尾行動を行うという不合理な状況がおこりうるのだ。ファーブルが見いだした虫たちの融通の利かない不思議な行動の数々も、この仕組みで説明することができる。

 動物行動学の確立とほぼ同時期に、ダーウィンを悩ませた行動の進化の謎についても突破口が開かれた。ファーブルの批判にも増して、ダーウィンを悩ませていたのが利他行動、つまり自分の生存や繁殖を犠牲にして他個体を助ける行動の進化であった。彼の説によれば、生物個体は自分の子や孫の数を最大化するように行動するはずであり、自分は一生繁殖せずに女王バチの繁殖を助ける働きバチのような存在の進化を説明できなかったのだ。ところがウィリアム・ハミルトンは、進化を個体ではなく遺伝子の観点から捉え直すことによって、この難題を解決した。集団遺伝学的に見れば、ある行動が広まるかどうかは、その行動をプログラムしている遺伝子が、いかにそのコピーを増やせるかにかかっている。彼は、ある個体の持つ遺伝子がその個体の繁殖だけでなく、兄弟や従兄弟などある確率で同じ遺伝子を持つ血縁個体の繁殖によっても増殖できることを指摘したのだ。つまり血縁個体を助ける利他行動は、遺伝子の観点から見れば十分に利己的であり、進化しうることを証明したのである。まさに「コロンブスの卵」的発想の転換である。これを突破口に、『社会生物学』を著したE・O・ウィルソンや『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスなどの活躍によって行動の進化学説は急速に発展し、現在は「進化生態学」という新たな学問分野として確立されている。

 しかし、こうして見ると、現代の行動学を築いてきた人々が、例外無く優れたフィールドワーカーであり、ほぼ確実に『昆虫記』の影響、少なくともその博物学的科学精神を受け継いでいることに驚かされる。

 私の「雪虫学」も、その後「雪氷生物学」に発展した。ヒマラヤの氷河など、雪や氷の世界にも、様々な生物が棲息することを世界で初めて明らかにすることができたのだ。今は毎年のように、極地の氷河からアフリカの氷河まで、世界各地の氷河に出かけて研究を続けている。

 最近、生物学の世界でも、難解な数式や複雑な装置を使わないと科学でないと見なされかねない風潮があるが、『昆虫記』は科学の本質は知る喜びと論理であり、大切なのは「虫たちに聞いてみよう」という精神なのだと思い起こさせてくれる。だからファーブルは、ダーウィンとともに今も私のヒーローなのだ。