「日本ファーブル史事始」
「ファーブル文化」、そうしたことばが使えるとすれば、その文化を最も豊かにもつ国、それは日本かもしれない。国語の教科書でファーブルが学べるだけでなく、昆虫記の全訳・抄訳・解説書・研究書・伝記など、さまざまな形・内容の大人向け、子供向けの関係書が数多く刊行され、誰もがたやすくファーブルの世界に親しめるからである。
私が少年時代を送ったのは戦争末期から戦後にかけてであったが、この貧しく、混乱にみちた時代であってすら、岩波書店は山田吉彦(やまだよしひこ)・林達夫(はやしたつお)の文庫『ファーブル昆虫記』の新しい分冊を刊行し続け、さらに山田吉彦の新書『ファーブル記』(この『ファーブル記』につけられた序文は、当時高校入試問題の例文として使用されたこともある)のような関連書まで発行していた。「ファーブル文化」の根強さを知る例証の一つになろう。
一人の少年が「昆虫少年」になるきっかけはいろいろある。重要なのは身近な友人の中に既成の昆虫少年がいること、そして少年の「昆虫少年」らしさを成長させるものとして図鑑、さらにもう一つ、ファーブルの『昆虫記』が挙げられよう。
私の昆虫少年歴は中学三年次に始まる。一般の昆虫少年に比べたらかなり遅い。しかしそのように奥手であった私でも昆虫少年になる上では前記の三要因がかかわった。蝶をやっていた友人の田中常介(たなかつねすけ)君の存在、古書店で入手した山川黙(やまかわしずか)の三省堂『原色新蝶類図』(のちに蝶の大家となる白水隆(しろうずたかし)さんが初めて入手した図鑑も山川の図譜だったという)、それに戦災転校生の池村政春(いけむらまさはる)君から譲りうけた岩波文庫の『昆虫記』七冊(この本は東京大空襲のとき防空壕で水をかぶり、みじめな姿になっていた)がそれである。
昆虫少年のかわりにファーブル少年という呼び方をすることもある。しかし昆虫少年とファーブル少年とは必ずしも同じではない。昆虫少年は採集や標本作りに熱中するが、ファーブル少年では、むしろ生態観察を重視するからである。私の場合、生態観察を軽視したわけではないが、分類や生物地理への関心が強かったので、ファーブル的観察歴、研究歴は乏しい。講談社の『日本昆虫記』全六巻に書いた「ふんをじょうずに使うハムシの生活」などが、ファーブル的といえばいえなくもない研究例となろうか。ただ私は、ある意味では今もファーブルとのかかわりをもっている。研究分野の一つに生物学史があり、ファーブルについても日本における歴史資料の収集を続けているからである。手もとに集まった関係資料は単行本だけで四百冊を超える(洋書を除く)。
そこで今回は、これらの資料に基づき、日本におけるファーブル文化初期定着史(日本ファーブル史事始)の一端にふれてみようと思う。
フランスでファーブルの『昆虫記』第一巻が刊行されたのは一八七九年であった。したがってこの本が輸入されていさえすれば日本の昆虫学者もファーブルの名や『昆虫記』に接し得たはずである。そこで明治を代表する昆虫学者松村松年(まつむらしょうねん)の先駆的昆虫書『日本昆蟲學』(一八九八)中にある参照文献リスト(約百五十冊)を調べてみた。しかしその中に『昆虫記』を見出すことはできなかった。おそらく松村はこの時点ではまだ『昆虫記』を知らなかったのであろう。松村が『昆虫記』に接するのはもっと遅く、一九一九年の国際会議で渡欧したとき、パリでこれを求め、帰朝後に初めて読んだと書き残しているからである。
日本で生きたタマオシコガネを最初に研究し、その記録を残したのは、日露戦争に従軍した作家の西村眞次(にしむらしんじ)であった(一九〇五)。また大陸から生体を入手して観察した昆虫学者の長野菊次郎(ながのきくじろう)(一九一一)、糞球(ふんきゅう)を学会で展示した動物学者谷津直秀(やつなおひで)(一九一六)などもいたが、引用すべきファーブルの研究に言及した人は見当たらない。ファーブルを知らなかった可能性が大きい。
日本の出版物中にファーブルの名が初めて登場するのは立花銑三郎(たちばなせんざぶろう)による『種の起源』の訳本『生物始源(せいぶつしげん)・一名種源論(しゅげんろん)』(一八九六)かと思う。ダーウィンの著作では『人間の由来』にもファーブルが出てくるので、神津専三郎(こうづせんざぶろう)による古い訳本『人祖論(じんそろん)』(一八八一)も調べてみた。しかしこの訳本では雌雄淘汰(しゆうとうた)の部分がすべてカットされているので該当する頁(ページ)が含まれていなかった。やはり立花の訳本が最初のようである(このとき立花が用いたFabreの仮名表記ファーブルも、後に現われるフェーバー、ファバー、ファブレ、フェーブレ、ファブル、フアブル、フヮーブルなどに比べ、より適切なものだった)。
だが訳本の場合は、たとえファーブルのことが訳文中に含まれていても、それを邦人によるファーブル記録とは認めにくい。そこで自らの文でファーブルのことを記した最初の著作を探してみた。
一九一三年に東亞堂書房から『マアテルリンク著蜜蜂の生活』という熊本五高教授、岡本清逸(おかもとせいひつ)の訳本が出た。そしてその巻頭には岡本の恩師・上田敏(うえだびん)による七頁にわたる序文が付されている。私はこの序文に注目した。おそらく『昆虫記』の英訳本『蜘蛛の生活』に載ったメーテルリンクの推薦文を参考にしたのだろうが、そこには上田によるファーブルの紹介文が含まれていたからである。簡単な内容ではあるが、この一文こそ邦人による本邦初のファーブル紹介といえよう。
ファーブル史事始で重要なもう一つは〝昆虫記〟という訳語の初使用問題である。一般には一九二二年、叢文閣から出た大杉栄(おおすぎさかえ)の『昆蟲記』第一巻とされているが、実際にはその二年前、春陽堂発行の月刊誌「新小説」二五巻七・八月号に連載された大杉栄の「蟷螂の話(フアブルの昆蟲記から)」が最初である(このシリーズは同年「改造」にも載る)。
そして今でこそごく普通に使用される『昆虫記』という訳語であるが、この形に落ち着くまでには「昆虫学備忘録」(一九一三)、「昆虫学漫録」(一九一五)、「昆虫の話」(一九一六)、「昆虫学雑記」(一九一八)など、さまざまな訳語が用いられてきた。比較してみたら、大杉訳語のスマートさがよくわかる。この訳語あって今日の日本ファーブル文化がある、そう思えるほどである。