月報 第19号・第20号

月報第19号 第10巻 上

大野正男

「日本ファーブル史事始」

「ファーブル文化」、そうしたことばが使えるとすれば、その文化を最も豊かにもつ国、それは日本かもしれない。国語の教科書でファーブルが学べるだけでなく、昆虫記の全訳・抄訳・解説書・研究書・伝記など、さまざまな形・内容の大人向け、子供向けの関係書が数多く刊行され、誰もがたやすくファーブルの世界に親しめるからである。

 私が少年時代を送ったのは戦争末期から戦後にかけてであったが、この貧しく、混乱にみちた時代であってすら、岩波書店は山田吉彦(やまだよしひこ)・林達夫(はやしたつお)の文庫『ファーブル昆虫記』の新しい分冊を刊行し続け、さらに山田吉彦の新書『ファーブル記』(この『ファーブル記』につけられた序文は、当時高校入試問題の例文として使用されたこともある)のような関連書まで発行していた。「ファーブル文化」の根強さを知る例証の一つになろう。

 一人の少年が「昆虫少年」になるきっかけはいろいろある。重要なのは身近な友人の中に既成の昆虫少年がいること、そして少年の「昆虫少年」らしさを成長させるものとして図鑑、さらにもう一つ、ファーブルの『昆虫記』が挙げられよう。

 私の昆虫少年歴は中学三年次に始まる。一般の昆虫少年に比べたらかなり遅い。しかしそのように奥手であった私でも昆虫少年になる上では前記の三要因がかかわった。蝶をやっていた友人の田中常介(たなかつねすけ)君の存在、古書店で入手した山川黙(やまかわしずか)の三省堂『原色新蝶類図』(のちに蝶の大家となる白水隆(しろうずたかし)さんが初めて入手した図鑑も山川の図譜だったという)、それに戦災転校生の池村政春(いけむらまさはる)君から譲りうけた岩波文庫の『昆虫記』七冊(この本は東京大空襲のとき防空壕で水をかぶり、みじめな姿になっていた)がそれである。

 昆虫少年のかわりにファーブル少年という呼び方をすることもある。しかし昆虫少年とファーブル少年とは必ずしも同じではない。昆虫少年は採集や標本作りに熱中するが、ファーブル少年では、むしろ生態観察を重視するからである。私の場合、生態観察を軽視したわけではないが、分類や生物地理への関心が強かったので、ファーブル的観察歴、研究歴は乏しい。講談社の『日本昆虫記』全六巻に書いた「ふんをじょうずに使うハムシの生活」などが、ファーブル的といえばいえなくもない研究例となろうか。ただ私は、ある意味では今もファーブルとのかかわりをもっている。研究分野の一つに生物学史があり、ファーブルについても日本における歴史資料の収集を続けているからである。手もとに集まった関係資料は単行本だけで四百冊を超える(洋書を除く)。

 そこで今回は、これらの資料に基づき、日本におけるファーブル文化初期定着史(日本ファーブル史事始)の一端にふれてみようと思う。

 フランスでファーブルの『昆虫記』第一巻が刊行されたのは一八七九年であった。したがってこの本が輸入されていさえすれば日本の昆虫学者もファーブルの名や『昆虫記』に接し得たはずである。そこで明治を代表する昆虫学者松村松年(まつむらしょうねん)の先駆的昆虫書『日本昆蟲學』(一八九八)中にある参照文献リスト(約百五十冊)を調べてみた。しかしその中に『昆虫記』を見出すことはできなかった。おそらく松村はこの時点ではまだ『昆虫記』を知らなかったのであろう。松村が『昆虫記』に接するのはもっと遅く、一九一九年の国際会議で渡欧したとき、パリでこれを求め、帰朝後に初めて読んだと書き残しているからである。

 日本で生きたタマオシコガネを最初に研究し、その記録を残したのは、日露戦争に従軍した作家の西村眞次(にしむらしんじ)であった(一九〇五)。また大陸から生体を入手して観察した昆虫学者の長野菊次郎(ながのきくじろう)(一九一一)、糞球(ふんきゅう)を学会で展示した動物学者谷津直秀(やつなおひで)(一九一六)などもいたが、引用すべきファーブルの研究に言及した人は見当たらない。ファーブルを知らなかった可能性が大きい。

 日本の出版物中にファーブルの名が初めて登場するのは立花銑三郎(たちばなせんざぶろう)による『種の起源』の訳本『生物始源(せいぶつしげん)・一名種源論(しゅげんろん)』(一八九六)かと思う。ダーウィンの著作では『人間の由来』にもファーブルが出てくるので、神津専三郎(こうづせんざぶろう)による古い訳本『人祖論(じんそろん)』(一八八一)も調べてみた。しかしこの訳本では雌雄淘汰(しゆうとうた)の部分がすべてカットされているので該当する頁(ページ)が含まれていなかった。やはり立花の訳本が最初のようである(このとき立花が用いたFabreの仮名表記ファーブルも、後に現われるフェーバー、ファバー、ファブレ、フェーブレ、ファブル、フアブル、フヮーブルなどに比べ、より適切なものだった)。

 だが訳本の場合は、たとえファーブルのことが訳文中に含まれていても、それを邦人によるファーブル記録とは認めにくい。そこで自らの文でファーブルのことを記した最初の著作を探してみた。

 一九一三年に東亞堂書房から『マアテルリンク著蜜蜂の生活』という熊本五高教授、岡本清逸(おかもとせいひつ)の訳本が出た。そしてその巻頭には岡本の恩師・上田敏(うえだびん)による七頁にわたる序文が付されている。私はこの序文に注目した。おそらく『昆虫記』の英訳本『蜘蛛の生活』に載ったメーテルリンクの推薦文を参考にしたのだろうが、そこには上田によるファーブルの紹介文が含まれていたからである。簡単な内容ではあるが、この一文こそ邦人による本邦初のファーブル紹介といえよう。

 ファーブル史事始で重要なもう一つは〝昆虫記〟という訳語の初使用問題である。一般には一九二二年、叢文閣から出た大杉栄(おおすぎさかえ)の『昆蟲記』第一巻とされているが、実際にはその二年前、春陽堂発行の月刊誌「新小説」二五巻七・八月号に連載された大杉栄の「蟷螂の話(フアブルの昆蟲記から)」が最初である(このシリーズは同年「改造」にも載る)。

 そして今でこそごく普通に使用される『昆虫記』という訳語であるが、この形に落ち着くまでには「昆虫学備忘録」(一九一三)、「昆虫学漫録」(一九一五)、「昆虫の話」(一九一六)、「昆虫学雑記」(一九一八)など、さまざまな訳語が用いられてきた。比較してみたら、大杉訳語のスマートさがよくわかる。この訳語あって今日の日本ファーブル文化がある、そう思えるほどである。

月報第20号 第10巻 下

池田清彦

「問題提起の所であり続ける『昆虫記』」

 奥本大三郎さんが完訳に挑んでいた『ファーブル昆虫記』全10巻(上・下)二十冊がついに完結した。第1巻上の刊行が二〇〇五年十一月であるから、足掛け十三年の偉業である。ファーブルもすごいが、奥本さんもすごい。昆虫記を貫く精神は、昆虫現物主義と飽くなき好奇心、それに虫たちへの愛である。

 私は、どうも虫たちへの愛が足りないらしく、虫の死体(標本)集めには恐ろしく興味がある割には、生きた虫にあまり興味がないようで、昆虫の行動を事細かく観察して記録するというパトスが足りない。一番興味があるカミキリムシの習性はそこそこ知っているが、それは習性を知らないと採集ができないからで、行動観察にそれほど興味があるわけではない。私に興味があるのは、カミキリムシの微細な形態の差異であり、それに関してはファーブルと同じく昆虫現物主義である。論文や図鑑に何が書いてあっても自分で確かめないことには納得しない。自分の目で見ると論文や図鑑の記述にはない新しい発見もある。

 今の学生に、例えば昆虫食について何か書けという課題を出す。多くの学生はインターネットで調べて、昆虫食はエコロジカルで、国連の食糧農業機関も推奨しているといったことや、おいしい昆虫のベストテンなどを書いてくるが、自分で食べてレポートを書いてくる学生はほとんどいない。

 好奇心旺盛なファーブルは、古代ローマ人が贅沢の限りを尽くしたのちに辿りついたという、珍味コッススを試食している。自分の家族と信頼できる友達にも加わってもらい、松の切株に住むコッススだと思うカミキリムシの幼虫を食べてみて、素晴らしく旨いことを確認し、さらにこの幼虫を飼育して、その正体がヒロムネウスバカミキリであることも発見している。

 ファーブルはまた、アリストテレスがセミの幼虫は〝風味絶佳(ふうみぜっか)〟と称揚しているのを知って、家族総出でセミの幼虫を採集して、試食している。そしてその結論は、食べられないことはないが、人に勧められるようなものではなかった。権威に盲従しない徹底的な実証精神がここにもみられる。もっとも、日本でごく普通に見られるアブラゼミの幼虫は、素揚げにすると結構旨いので、セミ食に関してはファーブルの料理の仕方が下手だったか、セミの種類が食べるにはあまり上等なものではなかったのかもしれない。

 ファーブルが最も興味があったのは、生きた昆虫の行動である。今でこそ、動物行動学は立派な学問分野として確立しているが、ファーブルの時代、『昆虫記』を学問だと思っていた人は、ほとんどいなかったと思う。ファーブルの同時代人・ダーウィンの『種の起原』は自然選択説の正しさを訴えるための傍証集と言ってもよいが、ファーブルの『昆虫記』は特別な仮説を提唱している書物ではなく、様々な昆虫の事細かい形態や行動の膨大な観察記録であり、文学の香りがするエッセイだと思われたのであろう。面倒臭がりの私は、よく飽きもせずに、五十年以上も観察し続けたものだと感心すると同時に、行間から滲(にじ)みでる、虫たちへの優しい眼差しと深い愛を感じて、ちょっと羨ましくもある。

 科学の基礎はまず素直に自然を観察することだと、多くの科学者は口をそろえて言うけれど、実際はほとんどの科学者はある枠組み(パラダイム)の中でしか自然を見ようとしない。例えば、ある科学者がダーウィンの自然選択説を信じたとしよう。すると、自然選択説でうまく説明できる現象ばかり目に入るようになり、それ以外の現象は見えなくなる。昆虫には不思議な形をしたものが多いが、生き延びるために必要な形態は保存され、邪魔な形態は淘汰(とうた)されるという自然選択による適応説を信じると、すべての形態には何らかの適応的な機能があると思い込むようになる。

 残念ながら『昆虫記』には取り上げられていないが、熱帯に行くとツノゼミという、前胸(ぜんきょう)に奇妙奇天烈な形をした角飾(つのかざ)りを持つ虫が沢山いる。多くの昆虫学者は、この飾りはいったい何のためにあるのだろうと思案するが、これは恐らく、問い方を間違えているのである。ツノゼミは奇妙な角飾りを持つがゆえに生き延びたのではなく、こんな邪魔な角飾りを持っているにもかかわらず生き延びたのである、と私は思う。

 虚心に昆虫を観察し続けたファーブルもまた、自然選択による適応という考えに疑問を持っていた。スカラベの前肢(ぜんし)には跗節(ふせつ)がないが、中肢(ちゅうし)と後肢(こうし)には跗節がある。もし前肢の跗節を欠くことが、スカラベにとって都合が良いならば、なぜ中肢や後肢の跗節はなくならないのか、とファーブルは問う。実際、スカラベが穴を掘ったり、糞球(ふんきゅう)を転がしたり、梨玉(なしだま)を作ったりするのに、中肢や後肢の跗節は全く役に立たず、もげてしまったスカラベも全く困っているようには見えない、とファーブルは述べている。したがって、前肢の跗節がない原因も自然選択による適応であるというには無理がある、とファーブルは考えたのだ。私見では、中肢や後肢の跗節が無くならなかったにもかかわらず、スカラベは絶滅しなかっただけなのである。まあ、ファーブルはそこまでは言っていないけれどね。

 ファーブルは謙虚にも、スカラベの前肢の跗節がないことの原因については全く何も知らない、と告白しているが、少なくとも、自然選択による進化ではないと考えたファーブルは真に慧眼(けいがん)であった。私の進化理論によれば、形態は自然選択とは独立の、遺伝子の使い方の変更により生じ、生き延びられないほどの不具合がない限り、多少非適応的な形態であっても存在し続けるのである。ツノゼミの角飾りや、スカラベの中肢や後肢の跗節は典型例であろう。

 さて、ファーブルが最も愛した虫たちはハチの仲間である。ファーブルは様々なハチの本能行動をつぶさに観察して、ダーウィンの自然選択説が誤りであることを確信するに至った。私は、「ファーブルと彼の虫たち」(『昆虫のパンセ』青土社〔改題『虫の思想誌』講談社学術文庫〕所収)や『進化論の最前線』(インターナショナル新書)で、ファーブルの観察が、ダーウィンの自然選択説への反証例として今なお有効であることを述べた。

 例えば、多くの狩り蜂たちは、獲物の急所を知っていて、そこに正確に針を刺し、一撃で獲物を倒す。この行動は自然選択の結果、徐々に進化したわけではない。なぜならば、中途半端なやり方では獲物を倒せないからである。事の最初から狩り蜂たちは、それぞれの獲物に応じた完璧な狩猟行動を身につけていたに違いない。「共時性のパラドックス」とでもいうべきこういった行動は自然選択説の漸進主義(グラジュアリズム)では説明できないのである。

 ファーブルはダーウィンの自然選択説のみならず、進化という現象そのものを信じていなかったようだが、狩り蜂の行動を含めて、すべての生命現象は進化の結果であることは間違いない。ファーブルのすごいところは、「共時性のパラドックス」は自然選択説では説明不能なことを、当時の誰よりも明晰に分かっていたことだ。残念ながら、「共時性のパラドックス」の進化プロセスはまだ解明されていない。その意味で『ファーブル昆虫記』は今もなお、問題提起の書であり続けているのである。